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【北条氏綱】
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小弓公方家が内部分裂! 形勢逆転へ
窮地に追い込まれた北条氏綱に対し、救いの手となったのが武家恒例のトラブル――「お家騒動」でした。
関東諸勢力の連帯によって形成されていた北条包囲網。
その一角であった小弓公方家が内乱を始め、さらには千葉の里見氏も分裂してしまい、当主の里見義豊と庶家出身の里見義堯が抗争を引き起こします。
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チャンス!とばかりに氏綱は義堯を支援します。
一方、上杉朝興が義豊サイドにつき、北条vs上杉の代理戦争という様相も帯びてきて、結果は北条サイド・里見義堯の勝利に終わります。
義堯が当主となった里見家は、当然ながら北条包囲網を離脱します。
上杉朝興方にとっては大幅な戦力ダウン。
それだけでなく里見氏同様、氏綱に敵対していた真里谷武田氏でも内乱が発生し、当主の真里谷信隆とその叔父・真里谷信秋が対立しました。
北条氏綱はここにも介入し、信隆を支援することで、今度は小弓公方・足利義明が支援した信秋と、再び代理戦争を引き起こします。
頻発するお家騒動を見ていると、関東の戦乱に終わりがないのもご納得でしょう。
氏綱にとっては残念ながら、真里谷武田氏の内乱は、敵方の信秋が勝利してしまうのですが、いずれにせよ北条包囲網を形成していた戦力の大幅ダウンは、上杉朝興・足利義明にとって大ダメージです。
何度も緒戦に介入した北条氏綱としては『してやったり……』といった心境だったはず。
このころから北条氏は再び敵地奥深くまで進撃できるようになり、一気に勢力を盛り返していくのです。
花倉の乱では栴岳承芳の味方になるも……
もともと周辺に敵を多く抱えていた北条氏。
その中でも西方の今川氏とだけは協力関係を構築できておりました。
しかし、天文5年(1536年)、今川家の当主・今川氏輝とその弟が同時に亡くなってしまい、後継者をめぐって【花蔵の乱(花倉の乱)】が勃発してしまいます。
対立したのは以下の二人。
栴岳承芳
vs
玄広恵探
両者共に今川氏親の息子でありながら僧名だったのは、当初は「後継者になる見込みがない」と思われていたためです。
勝ったのは、栴岳承芳こと今川義元。
「海道一の弓取り」と呼ばれ、後に【桶狭間の戦い】で織田信長に討ち取られるあの義元です。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
義元が花倉の乱に勝てたのは、側近であった太原雪斎の働きが大きいとされますが、実は北条氏綱も全面的に支援しており、北条という強力な後ろ盾を得ていたのです。
しかし、です。
支援した義元は、名門今川家の家督を継ぐと、氏綱の思いとは反対の方向へと舵を切ります。
北条と敵対していた武田氏との関係強化に乗り出したのです。
氏綱は「せっかく支援してやったのに、武田と結ぶとは何事か!」と激怒。
今度は、義元のいる駿河に向けて兵を送り、これまで連帯してきた両者は【河東一乱】という全面戦争へと突入していきます。
そして河東地域(富士川より東の駿河国)は、北条氏綱の手に落ちることとなるのです。
なお、義元の立場としては、駿河国主としての権威を確立するため、わざと武田と手を結び、北条の影響力を排除したかったのではないか?と指摘もされます。
河越城を落とし打倒扇谷の悲願を達成する
今川の反抗を抑え込んだ北条氏綱は、並行して扇谷上杉氏の攻略を進めていました。
この時期の扇谷上杉氏は、すでに上杉朝興は亡くなっており、跡を継いだ上杉朝定はまだまだ若年でした。
当主の変わり目を狙ったのでしょう。北条勢は、河越城近くの三木まで兵を進めます。
進撃してきた氏綱を迎え撃ったのは、朝定の叔父である上杉朝成。
北条氏綱はこの合戦で見事に勝利を挙げ、朝定は河越城の領有は困難だと判断して、近隣の武蔵松山城へと逃亡しました。
北条氏にとっては画期的な一戦でした。
なぜなら河越城は【享徳の乱】以降、関東で勢力を維持してきた宿敵・扇谷上杉氏の本拠地だったからです。

『江戸図屏風』にある川越城(河越城)/wikipediaより引用
周囲に扇谷上杉氏の衰退を見せつけ、同時に北条氏の実力をアピールするのに格好の拠点でした。
勢いはまだまだ続きます。
翌年には、武蔵国東部の重要拠点だった葛西城を攻略し、父・宗瑞(早雲)の代から悲願であった「扇谷上杉氏の打倒」をほぼほぼ成し遂げたのです。
河越城を領有したことで下総地域へ進出できるようになった北条氏綱は、なおも手綱を締めません。
続いて古河公方と小弓公方の対立に介入。
古河公方・足利晴氏から「小弓公方・足利義明を打倒せよ」という大義名分を得ると、義明がいた国府台の地へ向かうのです。
いわゆる【第一次国府台合戦】と呼ばれるもので、氏綱は、敵の足利義明や、その嫡男、弟などを討ち取る大勝利を収めます。
主君のみならず縁者を次々と失った小弓公方足利氏は滅び、北条氏は絶大な権威を獲得することになります。
こうして周辺勢力を実力で打倒していった北条氏は、いつしか関東最大の大名に成長していました。
もはや軍事力で彼らを討ち果たせる勢力は存在しません。
それでも北条氏綱は、まだまだ歩みを止めませんでした。
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