花倉の乱

花倉城跡の案内板/photo by 戦国未来

今川家

義元と雪斎の師弟コンビが花倉の乱で福島家に勝利~今川家の跡を継ぐ

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今川義元の生母である寿桂尼

彼女は義元が亡くなった後に今川家を支え、時に「女戦国大名」と称されるほどの実力者です。

寿桂尼
寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった

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しかし、今回の争乱鎮火は失敗に終わります。

長引けば不利と見たのか、福島家はこの年の5月25日に挙兵して強引に当主の座をかっさらおうとするのでした。

 

花倉城を攻撃

こうなっては義元も引き下がるわけには行きません。

そもそも嫡流である彼が引く理由はありませんしね。

北条との関係重視から寿桂尼は義元ではなく玄広恵探を推していたともされますが、いずれにせよ福島家らの勢力が、今川家の本拠・今川館へ攻め込むと、見事に追い返されます。

義元は、参謀の太原雪斎にも助けられ、さらに北条の支援を受けて6月10日に福島家をはじめとした反乱側のこもる方ノ上城を攻撃。

これを落城させると、兄・玄広恵探がいた花倉城(TOP画像参照)を攻め、徹底的に追い詰めました。

そのためこの乱は【花倉の乱】と呼ばれているわけですね。

ちなみに『麒麟がくる』で伊吹吾郎さんが演じられていたのが太原雪斎です。

太原雪斎
義元を支えた黒衣の宰相・太原雪斎 武田や北条と渡り合い今川は躍進

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わずか半月で決着 福島家は読み間違えた?

恵探は攻め込まれたときに花倉城から逃げ出し、付近の寺で切腹しました。

当時の福島家の当主が誰だったかもはっきりしないので、恵探が家を継ぐ意思を持っていたのかどうかもよくわかりません。

しかし、首を取られるより自ら腹を切ることを選んだあたり、やはり武家の人という感じがしますね。

なお、この乱は上記の通り半月程度で勝負がついてしまいましたが、福島家はそもそもどこに勝算があって兵を挙げたのか?

それを考える時、にわかに浮上してくるのが今川義元サイドについた太原雪斎です。

栴岳承芳(せんがくしょうほう)を名乗っていた義元を幼き頃より教育し、跡目相続にあたって還俗させ、さらにはこの花倉の乱で共に戦いました。

福島家としてはこの義元&太原雪斎コンビの力量を見誤ったのではないでしょうか?

もちろん太原雪斎は僧侶ですから槍働きではなく、また詳細な記録も残っておりませんが、彼の前後の関わりからして大きく影響したのは間違いないでしょう。

義元はこの後、武田信玄(当時は晴信)と北条氏康との【甲相駿三国同盟】にも深く関わっていたとされ、その手腕が今なお高く評価されております。

なお、今川義元の生涯や太原雪斎の詳細については、以下にも記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
日本史史料研究会『戦国僧侶列伝 (星海社新書)』(→amazon
花倉の乱/Wikipedia

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