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【今川義元】
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甲相駿三国同盟の真実
尾張進出と三河の統治を優先したいと考えた今川義元。
背後にある武田氏だけでなく、これまで敵対してきた北条氏とも和睦を結んだことはよく知られます。
今川義元・武田信玄・北条氏康の三者が義元ゆかりの「善徳寺」で直接会談し、互いに政略結婚を重ねた【甲相駿三国同盟】ですね。
特に、この会談の場面は【善徳寺の会盟】としても華々しく後世に伝えられ、大河ドラマ『武田信玄』や『風林火山』においても名シーンとして親しまれてきました。
しかし……。
俗説と有力説が入り混じっているのが実情で、結論から言ってしまえば「善徳寺の会盟がなかった」というのはすでに証明されています。
また、政略結婚の時期にもそれぞれズレがあると指摘されています。
実際のところは、北条氏と今川氏それぞれと友好的だった武田氏が中心となり、個別に同盟を構築していったというのが実情でしょう。
武田=北条
武田=今川
↓
今川=武田=北条
義元の正室(武田信虎の娘)が亡くなった後の天文21年(1552年)、義元の娘である嶺松院が、信玄の嫡男である武田義信と結婚。
甲駿同盟は継続されており、その翌年に武田=北条間の同盟が締結、残すは今川=北条間のみだったのです。
【花蔵の乱】に続く【河東の乱】から、今川家と北条家の関係が冷え込んでいたのは、前述の通り。
これを解消するため、その翌年には北条氏康の娘・早川殿が、義元の嫡男である今川氏真と結婚し、ついに【甲相駿三国同盟】が成立するのです。
同盟の趣旨としましては……。
互いを攻撃しないという不可侵条約から一歩進んで「同盟国が攻撃されたら援軍を出す」という、今風に言えば集団的自衛権に近いものでした。
実際、第二次川中島の戦いにおいては、義元が信玄の援軍に家臣を派遣しており、さらには上杉と武田の和睦をも斡旋しています。
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そしてその最大のメリットは、それぞれが背後を気にすることなく目の前の敵に集中できたことでしょう。
武田家→信濃へ
※主な敵・上杉謙信
北条家→関東へ
※主な敵・上杉謙信
今川家→尾張へ
※主な敵・織田信秀
武田信玄と北条氏康を同時に相手にする上杉謙信ってヤバすぎないか?
そう思われるかもしれませんが、それは別の記事に譲りまして、あらためて今川義元に注目。
北条氏との争いから一時は衰退しかけた今川氏を見事に立ち直らせ、
駿河
遠江
東三河
西三河
と次々に勢力固めを成し得た義元は、いつしか【海道一の弓取り=東海道で最も優れた武士】と称されるようになり、名実ともに天下を狙えるだけの戦国大名となったのです。
桶狭間前夜
かくして今川氏の地位を盤石にした義元。
実は、弘治2年~永禄2年(1556~1559年)の間に家督を嫡男・氏真に譲り、隠居の身となっています。
もちろん「引退」したのではありません。
自身が健在のうちに後継者を示すことで【花蔵の乱】の二の舞を防ぎ、駿河や遠江の支配を氏真に任せ、自身が三河国(とそれに続く尾張)の統治に集中するためだったと言われています。
しかし、それこそが戦国期でも一二を争う大激震へと繋がるんですね。
そうです。【桶狭間の戦い】です。
短期間で三河を支配した義元は、隣国・尾張への攻撃を継続します。
と言っても尾張攻めの目的が「上洛説」というのは近年ではほぼ否定されたような状況です。
なぜ義元は大軍を率いて尾張へ向かったか?
「尾張方封鎖解除説」
→尾張国境沿いにある鳴海領を確保し、領国に平和をもたらす
「三河確保説」
→三河国の支配を完全なものにする
「尾張侵略説」
→尾張の攻略を狙った
「東海地方平定説」
→天下とまではいかずとも東海地方の支配を固める
上記のように様々な学説が乱立している状況ですが、尾張をターゲットにしていることに変わりはありません。
桶狭間当日
義元は尾張攻略戦に、相当な準備をもって向かいました。
史料によって軍勢の総数はまちまちですが、少なく見積もっても2万。自ら尾張へと乗り込みます。
軍勢の中には徳川家康も家臣の一人として参戦しており、今川家の前線支城である大高城へ兵糧入れを命じられていたことが確認できます。
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一方、迎え撃つ織田家の軍勢は、義元に比べると明らかに少ないものでした。
加えて、当時の織田家を取り仕切っていたのは「大うつけ」として馬鹿にされていた織田信長です。
家臣らは「織田家の命運もこれまでか…」と嘆いていたところ、信長は少兵をもって桶狭間で立ち止まる今川軍を迂回して襲撃し、奇襲作戦によって見事な勝利を挙げた、という通説は皆さんもよくご存じでしょう。
しかし、「桶狭間」の実像は、我々が知る上記の展開とは少し異なっていたようです。
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『信長公記』を参考にすると、大高城に兵糧を運ばせてしまったことでピンチになった信長でしたが、家臣らの前では落ち着き払って「敦盛」を舞い、熱田神宮へ戦勝を祈願したのち、少兵を率いて出陣します。
当時は天候が荒れ模様で、雨が上がると信長は無謀にも正面から義元軍へ飛びかかっていき、壮絶な乱戦の中で退却していく義元を討ち取ったとされます。
『信長公記』の情報に加えて近年の研究を補完しておきますと……。
信長の兵は、少数ながら精鋭でした。家督を継げない武家の次男以下を専属の親衛隊として従え、普段から戦闘のプロとして仕上げていたんですね。
黒母衣衆(佐々成政)や赤母衣衆(前田利家)などで知られますように、非常に強兵だったのです。
一方、義元軍は雑兵も多い大軍だったため指示の伝達が遅く、さらに信長との決戦に備えて徳川家康の軍を後方に下げていたことも大きかったとされます。
信長の出現は、奇襲というよりセオリー無視のタイミングだったため、義元も策を見誤ったのではないか?という指摘もあります。
いずれにせよ今川義元が死んだことは確か。
享年42。
武田氏や北条氏と互角に渡り合ってきた「海道一の弓取り」であっても、たった一度の戦ですべてを失う。
まさに戦国乱世を象徴する出来事でした。
卓越した領国経営センスと文化的素養
日本人の信長贔屓のせいなのか。
「貴族趣味にかまけていた」
「桶狭間で慢心していた」
などと言われ、評価の低かった今川義元。
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しかし、その軍事外交政治手腕が卓越していたことは、ご理解いただけたのではないでしょうか。
実は彼の功績はそこだけに留まりません。
義元は領国形成センスと、文化人とての才能にも恵まれておりました。
まず、義元は領国で本格的な検地を実施しました。
かなり重要な施策と考えていたようで、大規模なものから小規模なものまで頻繁に実施、土地生産能力の把握に成功します。
さらに家臣を「寄親」と「寄子」に分類して上下関係を明確にし、【寄親寄子制】を根付かせました。
経済面でも非凡です。
金山の開発や流通・商業の整備に力を入れ、今風に言えば「殖産興業」にも手間を惜しまなかったのです。父・今川氏親の出した分国法『今川仮名目録』への条文追加も行うなど、法整備にも尽力しました。
しかし駿河・遠江・三河は生産能力が低い=年貢を集めにくい土地であったため、段銭や棟別銭といった年貢以外の税金で財源を確保していたようです。
それが結果として百姓らの負担を大きくさせ、義元死後に今川家が瓦解する原因になったという指摘もあります。
最後に、文化人としての教養をご紹介しましょう。
幼少期に京都や善徳院で一流文化人らと交流していたことはすでに触れましたが、成長した後もその素養を保ち続け、駿河は大内氏や朝倉氏と並び「戦国三大文化」と称されるほどになっていきます。
義元は都から積極的に文化人を招き、駿府の城下町を「小京都」のようなつくりにしていました。
公家と寺社双方の文化を上手に取り入れ、特に京都五山から大きな影響を受けたようです。
義元自身としても茶の湯や和歌に精通。能楽など各種芸能を愛する人物でもあったようです。
息子の今川氏真が蹴鞠にのめり込んでいたことは有名ですが、義元も「蹴鞠スト」だったかもしれません。
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文:とーじん
【参考文献】
小和田哲男『今川義元:自分の力量を以て国の法度を申付く (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
有光友學『今川義元 (人物叢書)』(→amazon)
藤本正行『桶狭間の戦い (歴史新書y)』(→amazon)
日本史史料研究会/大石泰史『今川史研究の最前線:ここまでわかった「東海の大大名」の実像』(→amazon)