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【寿桂尼】
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そして信玄と家康の侵攻が始まった
永禄8年(1565)、井伊直虎が、井伊家の宗主(女地頭)となった。
このとき上級権力者の今川氏真に挨拶に駿府まで行ったと考えられる。そして、寿桂尼に会ったであろう。
彼女と同様に井伊直虎も『井伊家の男が幼い虎松以外はいなくなっちゃったんだもん。こうするより、しかたがないじゃないの』と割り切って女地頭に就任したのかもしれない。
直虎の場合は、宗家の娘にして一人っ子であったので、「その日は突然やって来た」というよりも、幼い頃から、あるいは「次郎法師」という男の名前を付けられた頃から、『いつか宗主(地頭)になる日が来るかもしれない』と覚悟していた可能性もある。
その点は寿桂尼のケースと完全一致とは言えない(また、通説では、寿桂尼は母性を権力の源泉として家を束ねる女戦国大名で、直虎は男として生きた女地頭であって、タイプが異なるとする)。
しかし、駿府での寿桂尼との対話は、意義深いものであったハズだ。女性が城主になるための心得も学べたであろう。
そして永禄11年(1568)3月14日。
氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って、今川氏の政務を補佐したゴッドマザー・寿桂尼は他界した。
享年は不明であるが、アラウンドエイティ(80歳前後)と考えられている。
今川の将来を心配していた彼女は「死しても今川の守護たらん」と、今川館の鬼門(艮・うしとら)に葬られることを希望。
晩年は今川館の東北にある龍雲寺(静岡県静岡市葵区沓谷3丁目)で過ごしたという。
彼女の墓は、龍雲寺の裏山(谷津山の北麓)にある。
本来であれば、今川館の北西、安倍川を越えた慈悲尾(しいのお)にある夫・氏親の菩提寺である増善寺の夫の墓の横に葬られたであろうに、彼女は夫よりも、今川家の将来を選んだのだ。
不安を感じていたのである。
心配していたのである。
今川家を、そして、おばあちゃん子の宗主・今川氏真を……。
寿桂尼が亡くなった年の冬、寿桂尼の支持や応援がなくなったからか、直虎は、氏真に地頭職を解任された。
そして、その解任の約1ヶ月後。
信玄「寿桂尼が生きてるうちは駿河国を攻められない」
武田信玄は、
「寿桂尼が生きてるうちは駿河国を攻められない」
と言っていたという俗説がある。
事実、寿桂尼が亡くなった年(1568)の12月、駿河国への侵攻を開始しているのであるから、あながち大げさな話ではないだろう。
信玄は駿府に入ると、まず今川館の鬼門を封じている龍雲寺を攻撃。
今川氏親が整備したという七堂伽藍を焼き、寿桂尼の墓を壊し、住職を殺害して、鬼門である東北から今川館に攻め込んだ。
「東の京」「東の都」と称された美しい駿府の街は焼かれ、宗主・今川氏真は駿河国を捨てて、遠江国(掛川城)に落ち延びたが、徳川家康に攻められ、結局は北条氏を頼って相模国へ逃げた。
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この時点で、戦国大名としての今川氏は滅びたとされる(今川氏真は生き延びる)。
同家の滅亡を見ないですんだ寿桂尼は幸せだったのか。
信玄に壊された墓は、その後いったん修復され、昭和時代の山崩れで再び破壊、墓石も割れた。今はまた直されているが、現在は空輪が無い「四輪塔」である。
また、墓は、今川館がある南西を向いていたが、現在の墓は北を向いている。
2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」のポスター(制作:古屋遙)のテーマは「戦う花」。
「美しい花は厳しい環境の中ではかなく散りますが、生態系とともに変化し、未来にしぶとく種を残していく。それが本当の強さだと言わんばかりに…。直虎という女性の人生は、願いは、彼女の死をもって終わりではなく、それを受け継いだ者たちによって未来へと続いていく。そんな力強く生き伸びる主人公の姿を、「戦う花」に託した作品となっています。」(NHK「おんな城主 直虎」公式サイト)
男性になろうとした直虎は未婚で、子を産んでいないが、母性を強く打ち出した寿桂尼は、多くの子を産んだ。
子供たちの体には、今川家の血だけではなく、中御門家の血も流れている。
その本家(中御門家)の宜子氏が、当
歸ぎ来し駿河の国を見守りてしづまりいます 寿桂尼大方
中御門宜子
戦国の華と栄えていく久尓誉れ妙なり 寿桂尼大方
中御門宜子
※中御門宜子:従二位、勲二等、侯爵・中御門経恭(1888-1954/男爵・中御門経隆の次男)の長女。平田克己(伯爵・平田栄二の長男)夫人。能楽師。
「じつはこの中御門家では戦国初期、一人の娘を駿河の大名今川氏親に嫁がせている。公家の姫君ながら、夫を助け、今川家と都の公家との橋渡しをつとめた。彼女が産んだのが義元であり、織田信長の奇襲を受けて惨死したため、とかく愚将と思われがちだが、決してそうではない。今川家は氏親、義元時代、日本で屈指の先進的政策を次々に手がけた大名だった。そして氏親の死後、寿桂尼と呼ばれた中御門家の姫君は、義元と共に、今川王国を築いていったのである。しかも義元の死後は、「戦国の女大名」と呼ばれて今川家を取りしきり、彼女の在世中は、さすがの武田信玄も今川家に進攻することができなかった。
私はかつて彼女の生涯を『姫の戦国』という題で書いたことがある。そしてふしぎなことに、中御門経之の後裔である中御門宜子(たかこ)氏とも御縁が繋がった。宜子氏は戦争中、満州(現在の中国東北地方)に居られ、敗戦後は幼い令息を連れて、かの地を脱出。日本に戻られてから、数少ない女能楽師として観世流家元から認められて舞台にも立たれ、多くの門下生を育てあげた。
経之の史料のコピーも宜子氏から頂いている。寿桂尼から経之、そして宜子氏へ、とこれも長い歴史の経(たていと)として語り継がれる一族かもしれない。」(永井路子『岩倉具視 言葉の皮を剥きながら』「あとがき」)
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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。
自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
【桃夭・原文】
桃之夭夭 (桃の夭夭(ようよう)たる)
灼灼其華 (灼灼(しゃくしゃく)たる其の華)
之子于帰 (之の子、于(ゆ)き帰(とつ)ぐ)
宜其室家 (其の室家(しっか)に宜しからん)
桃之夭夭 (桃の夭夭たる)
有蕡其実 (蕡(ふん)たる有り其の実)
之子于帰 (之の子、于き帰ぐ)
宜其家室 (其の家室(かしつ)に宜しからん)
桃之夭夭 (桃の夭夭たる)
其葉蓁蓁 (其の葉、蓁蓁(しんしん)たり)
之子于帰 (之の子、于き帰ぐ)
宜其家人 (其の家人(かじん)に宜しからん)
【桃夭・現代語訳】
桃の木の若々しさよ。
燃えるように盛んに咲く桃の花よ。
(その花のように若くて美しい)この子が嫁いでいく。
その嫁ぎ先の家にふさわしいだろう。
桃の木の若々しさよ。
はち切れんばかりにたわわに実る桃の実よ。
(その実のように子宝に恵まれるであろう)この子が嫁いでいく。
その嫁ぎ先の家にふさわしいだろう。
桃の木の若々しさよ。
盛んに茂る桃の葉よ。
(その葉のように栄える家族や子孫を持つであろう)この子が嫁いでいく。
その嫁ぎ先の人にふさわしいだろう。