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【塚原卜伝】
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これが無手勝流だ! ハーッハッハッハッハ!!
あるとき卜伝が琵琶湖を渡る船に乗り、相客と話していたところ勝負を持ちかけられました。
卜伝は面倒だったのか早く目的地に行きたかったのか、なかなか受けようとはしません。
しかし相手がしつこいので彼も折れ、「そこまで言うなら一本だけ」ということで別の船に移って近くの小島に向かいました。
相手はあの塚原卜伝と勝負ができるということでwktkdkdk足がつくところまで来たと見るや否や、さっそく降り立ちました。
と、卜伝はここで予想だにしない行動に出ます。
なんと、相手を一人残してそのまま船を再び漕ぎ出していったのです。
呆然とする相手を尻目に、彼は「これが無手勝流だ! ハーッハッハッハッハ!!」(意訳)と呵呵大笑して去っていったとか。確かにその通りだけど……。
相手はその後誰かに助けてもらえたんですかね。
鍋蓋対決:武蔵は卜伝の死後に生まれている
また、卜伝と勝負というと宮本武蔵との逸話も有名ですね。
「武蔵が卜伝の食事中に乱入して切りかかったが、卜伝は鍋の蓋で防御して応じた」というものですが、そもそもこの話には重大なミスがあります。
卜伝は元亀二年(1571年)2月11日に亡くなっています。
しかし、武蔵は天正十二年(1584年)頃、戦国史で言えば【本能寺の変】後に生まれたとされ、二人が会える可能性は限りなく低い。
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まぁこの話自体が江戸時代あたりに出てきたものらしいので、当時の剣術ファンが
「卜伝と武蔵だったらこういうことできんじゃね!?」
「なにそれかっこいい!!」
「さすが剣聖!俺達にできないことを(ry」
みたいな感じで盛り上がって大ウケした結果、現代まで知られるようになったんでしょう。
話に尾ひれがつくというのは今も江戸時代も変わらないんですね。
卜伝の最期は、剣豪ということで物騒な話かと思われがちですが、意外にもそうではありません。
晩年は塚原城の近くに草庵を建て、そこで悠々自適な生活を送られたそうです。
そして前述の通り元亀2年(1571年)2月11日に83才で死去。
鹿嶋市に墓所があり、今なお現地を訪れる人が絶えず、ネット上にも訪問者の写真や声が掲載されています。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『日本剣豪100人伝』(→amazon)
塚原卜伝/Wikipedia