塚原卜伝

塚原卜伝と宮本武蔵の対決を描いた武蔵塚原試合図(月岡芳年)/wikipediaより引用

剣豪・忍者

戦国時代の代表的剣豪・塚原卜伝!数々の伝説や武蔵と対決の真偽は?

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これが無手勝流だ! ハーッハッハッハッハ!!

あるとき卜伝が琵琶湖を渡る船に乗り、相客と話していたところ勝負を持ちかけられました。

卜伝は面倒だったのか早く目的地に行きたかったのか、なかなか受けようとはしません。

しかし相手がしつこいので彼も折れ、「そこまで言うなら一本だけ」ということで別の船に移って近くの小島に向かいました。

相手はあの塚原卜伝と勝負ができるということでwktkdkdk足がつくところまで来たと見るや否や、さっそく降り立ちました。

と、卜伝はここで予想だにしない行動に出ます。

なんと、相手を一人残してそのまま船を再び漕ぎ出していったのです。

呆然とする相手を尻目に、彼は「これが無手勝流だ! ハーッハッハッハッハ!!」(意訳)と呵呵大笑して去っていったとか。確かにその通りだけど……。

相手はその後誰かに助けてもらえたんですかね。

 


 鍋蓋対決:武蔵は卜伝の死後に生まれている

また、卜伝と勝負というと宮本武蔵との逸話も有名ですね。

「武蔵が卜伝の食事中に乱入して切りかかったが、卜伝は鍋の蓋で防御して応じた」というものですが、そもそもこの話には重大なミスがあります。

卜伝は元亀二年(1571年)2月11日に亡くなっています。

しかし、武蔵は天正十二年(1584年)頃、戦国史で言えば【本能寺の変】後に生まれたとされ、二人が会える可能性は限りなく低い。

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まぁこの話自体が江戸時代あたりに出てきたものらしいので、当時の剣術ファンが

「卜伝と武蔵だったらこういうことできんじゃね!?」

「なにそれかっこいい!!」

「さすが剣聖!俺達にできないことを(ry」

みたいな感じで盛り上がって大ウケした結果、現代まで知られるようになったんでしょう。

話に尾ひれがつくというのは今も江戸時代も変わらないんですね。

卜伝の最期は、剣豪ということで物騒な話かと思われがちですが、意外にもそうではありません。

晩年は塚原城の近くに草庵を建て、そこで悠々自適な生活を送られたそうです。

そして前述の通り元亀2年(1571年)2月11日に83才で死去。

鹿嶋市に墓所があり、今なお現地を訪れる人が絶えず、ネット上にも訪問者の写真や声が掲載されています。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『日本剣豪100人伝』(→amazon
塚原卜伝/Wikipedia

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