三好長慶/wikipediaより引用

三好家

三好長慶が戦国畿内を制す! 足利や細川に勝利した隠れ天下人43年の生涯

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強大な軍事力を誇る長慶軍は、まず三好政長らを圧倒。

特に長慶の弟である安宅冬康あたぎふゆやす十河一存そごうかずまさらの猛攻は激しく、最終的に【江口の戦い】で三好政長以下、多数の重要人物を討ち取り、大勝利を収めます。

当時の将軍であった足利義晴(と義輝の親子)を追い出し、さらには敵対した主君・細川晴元を近江の坂本へと追いやったのです。

かくして晴元勢力からの独立を果たした長慶。

もはや恐れるものは何もありません。

彼は同じく「反晴元派」として戦った細川氏綱とともに上洛し、政治の中枢にどっかりと腰を据え、権力奪還を試みる晴元一派との戦いに挑みました。

 

義晴・義輝親子が挑んできた

政治の中枢を追われた晴元一派は、すぐに反攻作戦を立てました。

中でも中心として活躍したのが足利義晴足利義輝親子で、天文19年(1550年)には銀閣付近に中尾城という対長慶用の城郭を建築。

すでに鉄砲を実用化していた長慶軍に対して、防御を万全にして備えます。

将軍側も実戦での鉄砲運用には取り組んでおり、さながら大河ドラマ『麒麟がくる』のような争いが行われていたのです。

しかし、軍事に関しては長慶の方が一枚も二枚も上手でした。

義晴の死後に跡を継いだ義輝は、長慶軍に押されると中尾城をアッサリ破棄、近江・朽木の地へと逃亡します。

当時、畿内の国衆たちは義輝よりも長慶を支持する勢力の方が強く、将軍家にもかかわらず数多の家臣らに見限られてしまったのです。

「力押しでは到底かなわない。ならば……」

そこで起きたのが長慶暗殺未遂事件。

以下のような内容です。

 

長慶暗殺未遂事件 黒幕は将軍義輝か!?

天文20年(1551年)3月。

長慶は幕臣である伊勢貞孝の招きに応じ、彼の邸宅で酒を飲み交わしました。

その返礼として長慶が貞孝を自身の拠点である吉祥院に招いたところ、第一の事件が発生します。

まず、吉祥院に忍び込んで火を放とうとする少年がおり、彼を捕縛しました。

少年がやったことは単なるイタズラではなく、捕縛から数日後には、他に2人の共犯者がいたことが判明。すぐに3人を処刑したのですが、調べていくと事件の関係者は実に60人にも膨れ上がります。

計画性のある組織的犯行ということは明らかでした。

第二の事件は、ふたたび伊勢邸に招待された長慶が、舞の鑑賞などを楽しんでいた時に発生します。

その場にいた進士賢光が長慶を三度も切りつけるという暴挙に出ました。

長慶は、傷こそ負ったものの命に別状はなく、賢光はその場で自害。

『麒麟がくる』第6話のタイトルにもなり、見せ場としても描かれた「三好長慶襲撃計画」は、おそらくこの内容をもとにしたものでしょう。

しかし、ドラマの展開は史実と大きく異なるのも事実です。

「光秀が奮戦して長慶や松永久秀を救った」部分が創作なのは言うまでもないですが、一連の事件を引き起こした黒幕はドラマのように細川晴元ではなく、将軍【足利義輝】ではないか?と考えられているのです。

事件が連続しているさなか、義輝派の諸将らは活発な軍事行動に出ました。第二の事件勃発が3月14日で、その一日後には三好政生や香西元成らが京都の東山一帯を焼き払っています。

タイミングや状況を考えると、黒幕は義輝で間違いないでしょう。

ドラマでは別室で明智光秀の熱い思いを耳にし、家臣らに後を追わせた義輝が史実ではなぜこのような手に出たのか。

答えは単純で「真正面から戦っては、長慶に太刀打ちできない」から。

卑怯者と噂されようが何だろうが、当時の義輝に手段を選ぶ余裕などありませんでした。

 

長慶と義輝が和睦 かと思ったら再び対立

長慶にしても、自身の命を狙っている者の背後に義輝らがいることは重々承知していたでしょう。

しかし、将軍を殺すことはありませんでした。

むしろ、自分の政治運営に口出しをしないで大人しくしてくれていれば、危害を加えることさえなかったと思います。

これは当時の武士たちに「将軍を殺す」という発想が存在しなかったためで、長慶が「優柔不断なだけ」という批判は的確ではありません。

その後は長慶・義輝ともに和睦へ向けて動き出しており、近江守護六角義賢の仲介もあって天文21年(1552年)に両者は和睦。

長慶は晴元の家臣から正式に将軍の直臣として位置づけられ、両者の間には主従関係が生まれました。

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それでも、長慶はすべての権力を将軍に譲り渡しはしませんでした。

当然ながら義輝には不満が募ります。

そうした状況の中で、義輝は主戦派家臣による進言を受け入れてしまい、再び長慶との対決を決意。京都の霊山城に入ったことで和睦は事実上の破綻を迎えます。

隙をうかがうようにして細川晴元も長慶に兵を向けますが、ほとんど相手にされることはなく一蹴されて終わり。

晴元と義輝の一派は、明確に長慶の打倒を意識し、今度は長慶方の西院城へ攻め込みました。

 

「義輝に味方する人間は知行を没収だ!」

勢いよく挙兵した義輝。

現実問題、2万5千とも言われる長慶の強大な軍勢に全く歯が立たず、義輝は再び近江の朽木へと逃げていきました。

幾度も顔に泥を塗られた長慶も、さすがに腹を立てたのでしょう。

「公家・武家のいかんを問わず、義輝に味方する人間の知行(給料)を没収する!」

そんな極めて厳しい通達を出しました。

結果、義輝は約5年もの間、朽木の地で潜伏を余儀なくされてしまうのです。

この一連の対立は一般的に

「将軍なのに都を追われて頑張る健気な義輝と、彼をイジメる悪逆非道の長慶」

という図式で描かれがちです。

しかし実態は

「将軍という地位にいるだけで滅茶苦茶やっても許される義輝と、彼のワガママをひたすら耐え忍んだ長慶」

という構図に思えて仕方ありません。

事実、義輝家臣の多くが『長慶と和睦すればいいじゃないか。どうせ勝てないんだし……』と考えていたようで、義輝自身が周囲の人々から信頼を失っていった模様です。

「剣豪将軍」のイメージから華々しく描かれがちな義輝。

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政治力不足という負の側面があったことは間違いなさそうです。

 

畿内を制して「三好政権」を確立

義輝を追放して以降、自身の兄弟衆や松永久秀の活躍もあり、畿内の実権を握ることに成功した長慶。

ところが、この時期はまだ「細川氏綱の家臣」という位置づけです。

勢力としては他に並ぶ者がいなかったとはいえ、思うように動けない場面もありました。

そこで長慶は徐々に「細川氏綱抜きでの支配体制」を進め、その結果、例えば「四職」の一角・赤松晴政という幕府の重臣ですら傘下に置くような権力を確立してきます。

天文24年(1555年)には、父・三好元長の二十五回忌も実施。

同時期に長慶は「摂津・山城・和泉・丹波、播磨東部」を支配するまでのほぼ天下人に急成長を遂げておりました。

弟たちの勢力圏を加えると「阿波・讃岐・淡路・伊予東部」まで拡大します。

 

弘治年間(1555~1558年)は大きな戦は発生せず、長慶は「幕府支配」の世から「三好支配」の時代を作るべく、各地の問題解決に奔走して支配力を誇示しました。

その甲斐あって、長慶の名声は朝廷にも響き渡ることになります。

 

「これからは足利将軍より三好の時代か……」

近衛家や九条家といった名門の公家たちは「これからは足利将軍より三好の時代か……」と考え、義輝との関係を解消、長慶への接近を図ります。

清々しいほどの露骨さですが、長慶自身もこの動きには好意的。

「オレが朝廷を守ってやるぜ!」と言わんばかりに、庇護者として振舞うようになります。

当時の公家たちは、武士の庇護なしには生きられない存在でしたから、公家を飛び越え天皇自身からも頼りにされていたと考えるべきでしょう。

実際、弘治から永禄への改元についても、本来相談すべき相手の義輝ではなく、長慶に連絡が入りました。

しかし、当然ながら、この一件は義輝のプライドを刺激します。
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