三好長慶/wikipediaより引用

三好家

三好長慶が戦国畿内を制す! 足利や細川に勝利した隠れ天下人43年の生涯

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三好長慶
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義輝は、自身の権威低下をまざまざと見せつけられ、我慢がならずに近江・朽木で挙兵!

具体的な勝算もないままに立ち上がったのは、このままでは「将軍抜きの政治体制が完全に確立されてしまう」と悟ったのでしょう。

何かせずにはいられない――そんな窮地だったように思います。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用

長慶が賢いのは、事ここに至って将軍を無下に扱わなかったことでしょう。

諸大名が「武家秩序の崩壊」を意識して危機感を抱いた影響もあってか。永禄元年(1558年)にまたもや和睦が成立。義輝は京都に舞い戻ってきます。

長慶にとっても、この和睦は大きな収穫をもたらしました。

「足利将軍の名」を外交で用いられるようになったのです。

いくら権威が低下しているとはいえ、決して存在感が皆無でもない将軍の肩書には利用場面があり、例えば畿内から離れた地方の戦乱を自身に優位な形で進めるためには効果的でした。

しかも長慶は、以前から「将軍権威の切り崩し」に取り組み、実質的支配も強めています。

義輝らはほとんど傀儡に過ぎず、都での生活は以前と比にならないほど窮屈になっていたでしょう。

 

近親の死が相次ぎ、三好政権にほころびが見え始めると…

将軍との和睦を済ませた長慶は、ここから各地の戦に介入。

急激な領土拡張戦争に明け暮れるようになりました。

三好実休をはじめとする兄弟衆の活躍もあり、畠山氏の内紛に介入して河内を支配すると、続けざまに松永久秀の働きで大和をも平定、長慶政権としては最大の版図を築き上げます。

ところが、この頂点に立った頃から少しずつ綻びが見え始めます。

これまでは旧細川領地や細川晴元や足利義輝に味方する――要は自分に敵対する勢力の領土を奪っていくという流れでした。

最初に戦があり、その結果として土地の支配がついてきたのですね。

しかし、新しく始めた合戦は「三好氏に縁もゆかりもない地域を無理に奪う」というものです。

当然ながら近隣の諸大名は強い危機感を抱きます。

そんな状況下だった永禄4年(1561年)、長慶政権を軍事的に支えていた弟・十河一存が死去してしまいました。

長慶にとっては痛恨の極み。

一存の死は、瞬く間に周囲へ伝播してしまいます。

結果、六角氏や畠山氏は、もはやお馴染みとなった細川晴元を担ぎ出し、長慶に敵対する構えを見せ始めました。

長慶は、両者との間で展開された「(六角&畠山の)二面作戦」の負担に苦しんでいきます。

 

もう一人の片腕・実休が戦死してしまう

永禄5年(1562年)、三好実休と畠山高政らの軍勢が【久米田の戦い】で激突しました。

緒戦は終始三好方の優勢でしたが、好事魔多し、肝心の総大将・実休が戦死してしまうのです。

まるで【桶狭間の戦い】のごとく、トップを失った三好軍は総崩れとなって大敗。

十河一存と並び長慶の片腕だった実休を失うと、待ってましたとばかりに各地で反三好勢力が活気づきます。

程なくして再び畠山高政と【教興寺の戦い】でぶつかり、辛くも勝利こそ得ますが、このとき敵対勢力の黒幕が誰なのか、ハッキリしました。

足利義輝です。

三好家中には、さぞかし不穏な空気が流れていたことでしょう。

このころ三好家の家格はぐんぐん上昇しておりましたが、同時に「分不相応だ」として諸大名の猛反発を招いています。

そんな状態で迎えた永禄6年(1563年)、長慶が期待していた嫡男の三好義興が病死。

長慶が悲しみに暮れたのはもちろん、同等の悲しみを表現したのが松永久秀でした。

「とても不憫で心も消え入りそうだ」

彼にそう同情し、改めて長慶への忠誠を誓ったといいます。

今まで世間に広まっていた悪辣な「松永久秀像」からすると「内心ほくそ笑んでいたのでは?」と疑いたくなりますが、実は当時の史料から「悪名高い奸臣ぶり」を読み取ることはできません。

また、永禄7年(1564年)に起こった安宅冬康の殺害についても、「久秀の讒言を信じた長慶の手によるもの」という説もありますが、断言まではできません。

実際のところは「義興の死による後継者選びのドタバタ」から生じた流言の類と考えるのが自然で、長慶がお家騒動を未然に防ぐべく冬康を殺害した可能性だってあるのです。

真相は闇の中ですが、いずれにせよ正しい松永久秀像が変化しているのは間違いありません。

松永久秀は爆死ではない!信長を二度裏切るが実は忠義の智将【年表付】

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よろしければ上記の記事も併せてご覧ください(記事末にリンクを掲載しておきます)。

 

当代屈指の文化人でもあった長慶

一時は天下を手中に収めるかと思われた三好一族。

その悲劇はついに長慶を襲い、永禄7年(1565年)、彼は極秘裏に生涯を終えました。

享年43。

一説には冬康を斬らねばならなかったことを気に病んだ結果の病没だとされ。この一件を期に「重度のうつ病」を発症したという見解も存在するほど。

仮にそれが真実であれば、非情になり切れない「甘い人」という人物評に落ち着くかもしれません。

ただ、長慶が、当代随一の文化人だったのは間違いありません。

彼はとくに連歌を好んだといい、身分の貴賤を問わず数多くの人々と連歌で交流を図りました。

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さらに連歌好きが高じて『古今和歌集』をはじめとする古き世の短歌研究にも熱心であったといい、清少納言紫式部といった女流作家にまで興味を示していたといいます。

一方で武家法や刀剣の収集にも力を入れており、彼らが文武を極めようとしていた様子が伝わってきます。

彼の文化に対する姿勢は「戦国のスーパーマン」としてお馴染みの細川藤孝細川幽斎)にも多大な影響を与えたようで、「私も彼を見習って彼のように振舞った」という話が伝わるほど。

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幽斎は義輝復権のため各地を駆けずり回った男ですから、長慶は敵にあたります。長慶は「敵からもホレられる男」だった可能性もありますね。

そして、彼の教養人ぶりが朝廷からの支持を集めるに至ったのも事実だと思います。

確かに、当時の朝廷は「実力者」に媚びざるを得ないほど衰退していたのは間違いありません。

しかし、都のルールを知らずに増長してしまえば、長慶の祖父・三好之長のように反対勢力によって没落へ追い込まれた可能性もあります。

長慶も「家格の上昇」を急いだ結果として敵を増やし、三好政権崩壊のキッカケを作ってしまいました。

これは自身の権力に増長したというより「義輝を殺さず、かつ三好の権力を確立するためにはどうしたらよいか」を考え抜いた末の政治的判断だったようにも思えます。

こうした教訓は後に同じく権力を握ろうとした織田信長の方向性にも影響を与えたのではないでしょうか。

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その意味でいえば、長慶の存在は日本史全体を俯瞰したとしても、非常に重要な存在と位置付けられることになります。

 

長慶最大の功績は「足利将軍抜きの政治体制」

長慶という人を評する言葉として一般的なのは

「優柔不断」
「ツメの甘い男」

あたりでしょう。

しかし、近年では「長慶の行動は当時の常識に沿ったものであり、性格的な弱さを象徴するものではない」という見解もあります。

個人的には、長慶には「優柔不断と決断力、どちらの側面もある」と思います。

義輝の処遇については最大限の譲歩を提示し、優しさ甘さを見せる一方で、最終的には「足利将軍抜きの政治体制を目指していた」というのは最大の功績ではないでしょうか。

実際、彼以前にも「将軍ではないが幕府で実権を握ろう」と考えた人物は数多くいました。

古くは鎌倉幕府の執権・北条氏(北条義時が大河ドラマの主人公になりますね)がそうですし、生涯にわたって長慶を苦しめた細川晴元もその一人です。

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彼らのゴールは、あくまで「将軍」のもとで実権を握ること。

名実ともに自身を中心とした新しい政治体制の構築には至っておりませんでした。「自分たちは臣下で、誰かに仕えるのが当然」という常識があったのでしょう。

長慶も、おそらく都に進出してきた当初はここで考えが止まっていたハズです。

しかし、幕府権力の失墜と自身の強大な力を考えたとき「あれ? 別に将軍っていらなくない…?」と閃いてしまったのではないでしょうか。

だからこそ彼は将軍候補を担ぎ出すことなく、自分を中心とした政治体制を目指したのです。

この点に関して言えば、長慶は織田信長よりも先鋭的だったと言えるでしょう。

信長は上洛を試みた際、あくまで「足利義昭」を担ぎ出し、彼のもとで実権を握ろうとしました。

まだ保守的です。それが最終的に自身が権力を握ろう――と思い至ったのも、実は長慶という「先例」があったからではないでしょうか。

実際、信長も義昭を殺すことはせず、あくまで追放処分にとどめています。

長慶はもしかしたら「中世から近世への道を切り開いたパイオニア」かもしれません。

いつかは大河の主役を――そんな風に願ってしまいます。

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文:とーじん
編集:五十嵐利休

【参考文献】
国史大辞典
天野忠幸『三好長慶:諸人之を仰ぐこと北斗泰山 (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon
天野忠幸『三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)』(→amazon
今谷明・天野忠幸編集『三好長慶:室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(→amazon

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