三好長慶

三好長慶/wikipediaより引用

三好家

三好長慶が戦国畿内を制す! 信長にも影響を与えた隠れ天下人43年の生涯

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三好長慶
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「義輝に味方する人間は知行を没収だ!」

勢いよく挙兵した義輝。

現実問題、2万5千とも言われる長慶の強大な軍勢に全く歯が立たず、義輝は再び近江の朽木へと逃げていきました。

幾度も顔に泥を塗られた長慶も、さすがに腹を立てたのでしょう。

「公家・武家のいかんを問わず、義輝に味方する人間の知行(給料)を没収する!」

そんな極めて厳しい通達を出しました。

結果、義輝は約5年もの間、朽木の地で潜伏を余儀なくされてしまうのです。

この一連の対立は一般的に

「将軍なのに都を追われて頑張る健気な義輝と、彼をイジメる悪逆非道の長慶」

という図式で描かれがちです。

しかし実態は

「将軍という地位にいるだけで滅茶苦茶やっても許される義輝と、彼のワガママをひたすら耐え忍んだ長慶」

という構図に思えて仕方ありません。

事実、義輝家臣の多くが『長慶と和睦すればいいじゃないか。どうせ勝てないんだし……』と考えていたようで、義輝自身が周囲の人々から信頼を失っていった模様です。

「剣豪将軍」のイメージから華々しく描かれがちな義輝。

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政治力不足という負の側面があったことは間違いなさそうです。

 

畿内を制して「三好政権」を確立

義輝を追放して以降、自身の兄弟衆や松永久秀の活躍もあり、畿内の実権を握ることに成功した長慶。

ところが、この時期はまだ「細川氏綱の家臣」という位置づけです。

勢力としては他に並ぶ者がいなかったとはいえ、思うように動けない場面もありました。

そこで長慶は徐々に「細川氏綱抜きでの支配体制」を進め、その結果、例えば「四職」の一角・赤松晴政という幕府の重臣ですら傘下に置くような権力を確立してきます。

天文24年(1555年)には、父・三好元長の二十五回忌も実施。

同時期に長慶は「摂津・山城・和泉・丹波、播磨東部」を支配するまでのほぼ天下人に急成長を遂げておりました。

弟たちの勢力圏を加えると「阿波・讃岐・淡路・伊予東部」まで拡大します。

 

弘治年間(1555~1558年)は大きな戦は発生せず、長慶は「幕府支配」の世から「三好支配」の時代を作るべく、各地の問題解決に奔走して支配力を誇示しました。

その甲斐あって、長慶の名声は朝廷にも響き渡ることになります。

 

「これからは足利将軍より三好の時代か……」

近衛家や九条家といった名門の公家たちは「これからは足利将軍より三好の時代か……」と考え、義輝との関係を解消、長慶への接近を図ります。

清々しいほどの露骨さですが、長慶自身もこの動きには好意的。

「オレが朝廷を守ってやるぜ!」と言わんばかりに、庇護者として振舞うようになります。

当時の公家たちは、武士の庇護なしには生きられない存在でしたから、公家を飛び越え天皇自身からも頼りにされていたと考えるべきでしょう。

実際、弘治から永禄への改元についても、本来相談すべき相手の義輝ではなく、長慶に連絡が入りました。

しかし、当然ながら、この一件は義輝のプライドを刺激します。

義輝は、自身の権威低下をまざまざと見せつけられ、我慢がならずに近江・朽木で挙兵!

具体的な勝算もないままに立ち上がったのは、このままでは「将軍抜きの政治体制が完全に確立されてしまう」と悟ったのでしょう。

何かせずにはいられない――そんな窮地だったように思います。

剣豪将軍としてお馴染みの足利義輝/wikipediaより引用

長慶が賢いのは、事ここに至って将軍を無下に扱わなかったことでしょう。

諸大名が「武家秩序の崩壊」を意識して危機感を抱いた影響もあってか。永禄元年(1558年)にまたもや和睦が成立。義輝は京都に舞い戻ってきます。

長慶にとっても、この和睦は大きな収穫をもたらしました。

「足利将軍の名」を外交で用いられるようになったのです。

いくら権威が低下しているとはいえ、決して存在感が皆無でもない将軍の肩書には利用場面があり、例えば畿内から離れた地方の戦乱を自身に優位な形で進めるためには効果的でした。

しかも長慶は、以前から「将軍権威の切り崩し」に取り組み、実質的支配も強めています。

義輝らはほとんど傀儡に過ぎず、都での生活は以前と比にならないほど窮屈になっていたでしょう。

 

近親の死が相次ぎ、三好政権にほころびが見え始めると…

将軍との和睦を済ませた長慶は、ここから各地の戦に介入。

急激な領土拡張戦争に明け暮れるようになりました。

三好実休をはじめとする兄弟衆の活躍もあり、畠山氏の内紛に介入して河内を支配すると、続けざまに松永久秀の働きで大和をも平定、長慶政権としては最大の版図を築き上げます。

ところが、この頂点に立った頃から少しずつ綻びが見え始めます。

これまでは旧細川領地や細川晴元や足利義輝に味方する――要は自分に敵対する勢力の領土を奪っていくという流れでした。

最初に戦があり、その結果として土地の支配がついてきたのですね。

しかし、新しく始めた合戦は「三好氏に縁もゆかりもない地域を無理に奪う」というものです。

当然ながら近隣の諸大名は強い危機感を抱きます。

そんな状況下だった永禄4年(1561年)、長慶政権を軍事的に支えていた弟・十河一存が死去してしまいました。

長慶にとっては痛恨の極み。

一存の死は、瞬く間に周囲へ伝播してしまいます。

結果、六角氏や畠山氏は、もはやお馴染みとなった細川晴元を担ぎ出し、長慶に敵対する構えを見せ始めました。

長慶は、両者との間で展開された「(六角&畠山の)二面作戦」の負担に苦しんでいきます。

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