天下人として広く知られる織田信長。
その後、豊臣秀吉を経て徳川家康と続き、戦国時代に終わりを告げるわけですが、実は信長の前に「天下人だったのでは?」と評価される人物がいます。
三好長慶(みよしながよし)です。
この長慶、なんと11歳の若さで政局に引っ張り出されると、あれよあれよと出世を果たし、畿内に勢力を築きました。
大河ドラマ『麒麟がくる』で吉田鋼太郎さんが演じて話題となった、松永久秀を家臣に従えていたことでも知られます。
では、史実の三好長慶はいかなる人物だったのか?
大永2年(1522年)2月13日に生まれた長慶の足跡を追ってみましょう。
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之長~元長に続く三好長慶
三好長慶は大永2年(1522年)、三好元長(もとなが)の子として生まれました。
彼らの出自である三好家はもともと阿波に拠点があり、元長の父である三好之長(ゆきなが・長慶の祖父)が細川澄元を支えたことで一躍名を馳せます。
この澄元が細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)のトップであり、上洛して権勢を振るうのに、之長も尽力したのですね。
というのも細川京兆家は、室町幕府内の最有力ポスト「管領」を代々歴任してきた名門一族です。
ここに付き従うことで三好家も勢力を拡大させていきました。しかし……。
之長自身の粗野な振る舞いもあり、主君の澄元と共に権力争いに敗れると、再び阿波へ逃亡。
最終的に之長は権力争いに敗れ、自害へと追い込まれています。
その子であり、長慶の父である三好元長は「敗者の息子」として長く潜伏を強いられました。
いったんは沈んだ三好家ですが、すぐにチャンスはやってきました。
なんせ当時の畿内は【応仁の乱(応仁・文明の乱)】以来、政治情勢が極めて不安定であり、足利氏やら細川氏やら、常に幕府の有力者たちが権力を巡って争い続けていたのです。
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元長も、澄元の息子・細川晴元らと共に立ち上がり、商業都市として知られる堺を制圧。
近年では「堺幕府」とも呼ばれる新たな政治体制を樹立し、三好氏の立場も安泰になるかと思われました。
一向宗も敵に回し父・元長は敗死
しかし、そう容易く収まらないのが戦国乱世の常です。
三好元長と細川晴元は、やがて軋轢を深め、天文元年(1532年)には堺幕府の内紛も相まって戦に発展してしまいます。
晴元は元長を倒すべく山科本願寺と結託。

山科中央公園に残る山科本願寺の土塁跡/photo by ブレイズマン wikipediaより引用
一大勢力である一揆衆をも敵に回してしまった元長は、10万とも20万とも言われる大軍によって本拠・堺を包囲されてしまいました。
「もはやこれまで……」
敗北を悟った元長は、妻と千熊丸(後の三好長慶)を地元であった阿波へと逃がします。
そして最期の一戦を遂げて自害。
このとき、長慶はまだ11歳でした。
普通に考えれば、長慶もまた父が置かれていた状況と同じ「敗者の息子」として、雌伏の時を過ごすと流れになる場面でしょう。
しかし、当時の京都はそんな状況はお構いなしに荒れておりました。
長慶自身がかなり聡明な少年だったとされ、驚異的な若さで畿内の政局へ引っ張り出されていくのです。
大変だ 一揆勢が暴徒化し止められない
なぜ、さほどなまで急速に、長慶は復権できたのか?
そこには細川晴元の判断ミスがあったことが要因として挙げられます。
先ほど「本願寺をけしかけて一揆を引き起こさせた」と記しましたが、問題は元長を追い落とした後でした。
戦に駆り出した一向宗が完全に「暴走化」してしまい、晴元にも止められなくなってしまったのです。
それどころか一向宗のトップである本願寺証如でさえも暴徒たちを治めることができず、いつしか晴元自身が生命の危機にさらされてしまいました。
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一向一揆は本当に恐ろしい集団です。
例えば【越前一向一揆】なんかも、非常によく似た展開で大きなトラブルに発展しております。
簡単に説明しておきますと……。
越前では、朝倉家滅亡の後、旧朝倉家臣団の内紛が起き、助っ人に呼ばれた加賀の一向宗徒たちが暴徒化。越前の一揆勢を巻き込んで武士勢力を追い出し、一時は「百姓の持ちたる国」になっていたのです。
この越前一向一揆を鎮圧するため、織田信長は5万の織田軍全力で取り掛かるほどでした。
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畿内で細川晴元を追い込んだ一揆勢も同様に恐ろしい集団だったのでしょう。
天文2年(1533年)、一揆衆に押された晴元は、ついに淡路島まで逃亡することを余儀なくされ、その後は晴元派の家臣や法華一揆衆の力も借りてようやく戦況を五分に戻せるような状態。
ようやく一息ついたところで新たな懸念が浮上します。
同じ頃、京都にほどちかい丹波国で、細川晴国が台頭しつつあったのです。
12歳の若さで晴元と一揆勢の和睦をまとめる
細川晴国は、かつて晴元が権力の座から引きずり落とした細川高国の弟です。
高国は一時期、畿内で政権運営を担っていたほどのヤリ手であり、晴国がその勢力を率いているとあらば、今後の難敵になりかねません。
「もはや一揆衆と争っている場合ではない!」
そう考えた晴元は、ある人物の仲介によって、無事、講和を結ぶに至ります。
ある人物とは、他でもありません。
三好長慶です。
このとき長慶、弱冠12歳という若さながら、和睦の仲介人として交渉をまとめたと伝わります。
いくらなんでも12歳で交渉の全権を担うのは異例のことであり『本当に長慶が交渉したのか? 単なる逸話ではないのか?』と思ってしまうかもしれません。
しかし、仲介人として史料に名が残されており、少なくとも名目上は彼が和睦のキーパーソンであったことは間違いない様子。
近年の研究でも「本願寺側は父の仇として自分たちを強く憎んでいるであろう長慶との関係改善を望んでいた」という可能性が指摘されており、若年とはいえ長慶の存在は大きかったのです。
かくして交渉をまとめた長慶は、元服して晴元の家臣に舞い戻ります。
もちろん、その感情は少なからず複雑だったことでしょう。
そもそも長慶の父が一揆衆相手に敗死したのも、細川晴元が仕掛けたからです。その晴元のトラブルを自らが解決せねばならないなんて、そんな理不尽な話なんてありません。
長慶は、それでも交渉をまとめたのでした。
晴元との対立が表面化! ついに近江へ追い出す
晴元に仕えてから、長慶は何度も合戦や政争に巻き込まれました。
高国の後継者を名乗る細川氏綱や旧高国系の国衆、さらには足利義晴・足利義輝親子らを相手に奮戦を重ね、ギリギリのところで晴元政権を支えたのです。
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これらの勝利は、紛れもなく長慶を含めた三好一族の軍事力によるもの。
権力の座に就く晴元本人の実力ではありません。
長慶は、自身と主君の力量を冷静に比較しつつ、虎視眈々と「反逆」の機会を窺っていたことでしょう。
そんな天文17年(1548年)のこと、ある事件が勃発します。
いささか複雑ですので、順を追って説明しますと……。
まず細川晴元が、「細川氏綱に協力した」という理由で池田信正を自害へ追い込みました。
その後、長慶と同じ三好一族ながら関係の冷え込んでいた三好政長が、池田家の後継者として自身の孫を擁立。このゴリ押しが、池田家に内乱を生じさせます。
長慶は晴元の側近らに相談しました。
「政長とその息子・三好政生(まさなり)は池田家を我が物にせんとしております。我々の手で成敗いたしましょう」
これに対し晴元は、まともに取り合おうとしなかったので、長慶はついに自身の判断で挙兵。表向きは「政長親子を討つ」という名目で出陣します。
しかし、実はこれこそが「父の仇」への復讐でした。
強大な軍事力を誇る長慶軍は、まず三好政長らを圧倒。
特に長慶の弟である安宅冬康(あたぎふゆやす)と十河一存(そごうかずまさ)らの猛攻は激しく、最終的に【江口の戦い】で三好政長以下、多数の重要人物を討ち取り、大勝利を収めます。
当時の将軍であった足利義晴(と義輝の親子)を追い出し、さらには敵対した主君・細川晴元を近江の坂本へと追いやったのです。
かくして晴元勢力からの独立を果たした長慶。
もはや恐れるものは何もありません。
彼は同じく「反晴元派」として戦った細川氏綱とともに上洛し、政治の中枢にどっかりと腰を据え、権力奪還を試みる晴元一派との戦いに挑みました。
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