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【三好長慶】
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12歳の若さで晴元と一揆勢の和睦をまとめる
細川晴国は、かつて晴元が権力の座から引きずり落とした細川高国の弟です。
高国は一時期、畿内で政権運営を担っていたほどのヤリ手であり、晴国がその勢力を率いているとあらば、今後の難敵になりかねません。
「もはや一揆衆と争っている場合ではない!」
そう考えた晴元は、ある人物の仲介によって、無事、講和を結ぶに至ります。
ある人物とは、他でもありません。
三好長慶です。
このとき長慶、弱冠12歳という若さながら、和睦の仲介人として交渉をまとめたと伝わります。
いくらなんでも12歳で交渉の全権を担うのは異例のことであり『本当に長慶が交渉したのか? 単なる逸話ではないのか?』と思ってしまうかもしれません。
しかし、仲介人として史料に名が残されており、少なくとも名目上は彼が和睦のキーパーソンであったことは間違いない様子。
近年の研究でも「本願寺側は父の仇として自分たちを強く憎んでいるであろう長慶との関係改善を望んでいた」という可能性が指摘されており、若年とはいえ長慶の存在は大きかったのです。
かくして交渉をまとめた長慶は、元服して晴元の家臣に舞い戻ります。
もちろん、その感情は少なからず複雑だったことでしょう。
そもそも長慶の父が一揆衆相手に敗死したのも、細川晴元が仕掛けたからです。その晴元のトラブルを自らが解決せねばならないなんて、そんな理不尽な話なんてありません。
長慶は、それでも交渉をまとめたのでした。
晴元との対立が表面化! ついに近江へ追い出す
晴元に仕えてから、長慶は何度も合戦や政争に巻き込まれました。
高国の後継者を名乗る細川氏綱や旧高国系の国衆、さらには足利義晴・足利義輝親子らを相手に奮戦を重ね、ギリギリのところで晴元政権を支えたのです。
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これらの勝利は、紛れもなく長慶を含めた三好一族の軍事力によるもの。
権力の座に就く晴元本人の実力ではありません。
長慶は、自身と主君の力量を冷静に比較しつつ、虎視眈々と「反逆」の機会を窺っていたことでしょう。
そんな天文17年(1548年)のこと、ある事件が勃発します。
いささか複雑ですので、順を追って説明しますと……。
まず細川晴元が、「細川氏綱に協力した」という理由で池田信正を自害へ追い込みました。
その後、長慶と同じ三好一族ながら関係の冷え込んでいた三好政長が、池田家の後継者として自身の孫を擁立。このゴリ押しが、池田家に内乱を生じさせます。
長慶は晴元の側近らに相談しました。
「政長とその息子・三好政生(まさなり)は池田家を我が物にせんとしております。我々の手で成敗いたしましょう」
これに対し晴元は、まともに取り合おうとしなかったので、長慶はついに自身の判断で挙兵。表向きは「政長親子を討つ」という名目で出陣します。
しかし、実はこれこそが「父の仇」への復讐でした。
強大な軍事力を誇る長慶軍は、まず三好政長らを圧倒。
特に長慶の弟である安宅冬康(あたぎふゆやす)と十河一存(そごうかずまさ)らの猛攻は激しく、最終的に【江口の戦い】で三好政長以下、多数の重要人物を討ち取り、大勝利を収めます。
当時の将軍であった足利義晴(と義輝の親子)を追い出し、さらには敵対した主君・細川晴元を近江の坂本へと追いやったのです。
かくして晴元勢力からの独立を果たした長慶。
もはや恐れるものは何もありません。
彼は同じく「反晴元派」として戦った細川氏綱とともに上洛し、政治の中枢にどっかりと腰を据え、権力奪還を試みる晴元一派との戦いに挑みました。
義晴・義輝親子が挑んできた
政治の中枢を追われた晴元一派は、すぐに反攻作戦を立てました。
中でも中心として活躍したのが足利義晴・足利義輝親子で、天文19年(1550年)には銀閣付近に中尾城という対長慶用の城郭を建築。
すでに鉄砲を実用化していた長慶軍に対して、防御を万全にして備えます。
将軍側も実戦での鉄砲運用には取り組んでおり、さながら大河ドラマ『麒麟がくる』のような争いが行われていたのです。
しかし、軍事に関しては長慶の方が一枚も二枚も上手でした。
義晴の死後に跡を継いだ義輝は、長慶軍に押されると中尾城をアッサリ破棄、近江・朽木の地へと逃亡します。
当時、畿内の国衆たちは義輝よりも長慶を支持する勢力の方が強く、将軍家にもかかわらず数多の家臣らに見限られてしまったのです。
「力押しでは到底かなわない。ならば……」
そこで起きたのが長慶暗殺未遂事件。
以下のような内容です。
長慶暗殺未遂事件 黒幕は将軍義輝か!?
天文20年(1551年)3月。
長慶は幕臣である伊勢貞孝の招きに応じ、彼の邸宅で酒を飲み交わしました。
その返礼として長慶が貞孝を自身の拠点である吉祥院に招いたところ、第一の事件が発生します。
まず、吉祥院に忍び込んで火を放とうとする少年がおり、彼を捕縛しました。
少年がやったことは単なるイタズラではなく、捕縛から数日後には、他に2人の共犯者がいたことが判明。すぐに3人を処刑したのですが、調べていくと事件の関係者は実に60人にも膨れ上がります。
計画性のある組織的犯行ということは明らかでした。
第二の事件は、ふたたび伊勢邸に招待された長慶が、舞の鑑賞などを楽しんでいた時に発生します。
その場にいた進士賢光が長慶を三度も切りつけるという暴挙に出ました。
長慶は、傷こそ負ったものの命に別状はなく、賢光はその場で自害。
『麒麟がくる』第6話のタイトルにもなり、見せ場としても描かれた「三好長慶襲撃計画」は、おそらくこの内容をもとにしたものでしょう。
しかし、ドラマの展開は史実と大きく異なるのも事実です。
「光秀が奮戦して長慶や松永久秀を救った」部分が創作なのは言うまでもないですが、一連の事件を引き起こした黒幕はドラマのように細川晴元ではなく、将軍【足利義輝】ではないか?と考えられているのです。
事件が連続しているさなか、義輝派の諸将らは活発な軍事行動に出ました。
第二の事件勃発が3月14日で、その一日後には三好政生や香西元成らが京都の東山一帯を焼き払っています。
タイミングや状況を考えると、黒幕は義輝で間違いないでしょう。
ドラマでは別室で明智光秀の熱い思いを耳にし、家臣らに後を追わせた義輝が史実ではなぜこのような手に出たのか。
答えは単純で「真正面から戦っては、長慶に太刀打ちできない」から。
卑怯者と噂されようが何だろうが、当時の義輝に手段を選ぶ余裕などありませんでした。
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