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【三好長慶】
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長慶と義輝が和睦 かと思ったら再び対立
長慶にしても、自身の命を狙っている者の背後に義輝らがいることは重々承知していたでしょう。
しかし、将軍を殺すことはありませんでした。
むしろ、自分の政治運営に口出しをしないで大人しくしてくれていれば、危害を加えることさえなかったと思います。
これは当時の武士たちに「将軍を殺す」という発想が存在しなかったためで、長慶が「優柔不断なだけ」という批判は的確ではありません。
その後は長慶・義輝ともに和睦へ向けて動き出しており、近江守護・六角義賢の仲介もあって天文21年(1552年)に両者は和睦。
長慶は晴元の家臣から正式に将軍の直臣として位置づけられ、両者の間には主従関係が生まれました。
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それでも、長慶はすべての権力を将軍に譲り渡しはしませんでした。
当然ながら義輝には不満が募ります。
そうした状況の中で、義輝は主戦派家臣による進言を受け入れてしまい、再び長慶との対決を決意。京都の霊山城に入ったことで和睦は事実上の破綻を迎えます。
隙をうかがうようにして細川晴元も長慶に兵を向けますが、ほとんど相手にされることはなく一蹴されて終わり。
晴元と義輝の一派は、明確に長慶の打倒を意識し、今度は長慶方の西院城へ攻め込みました。
「義輝に味方する人間は知行を没収だ!」
勢いよく挙兵した義輝。
現実問題、2万5千とも言われる長慶の強大な軍勢に全く歯が立たず、義輝は再び近江の朽木へと逃げていきました。
幾度も顔に泥を塗られた長慶も、さすがに腹を立てたのでしょう。
「公家・武家のいかんを問わず、義輝に味方する人間の知行(給料)を没収する!」
そんな極めて厳しい通達を出しました。
結果、義輝は約5年もの間、朽木の地で潜伏を余儀なくされてしまうのです。
この一連の対立は一般的に
「将軍なのに都を追われて頑張る健気な義輝と、彼をイジメる悪逆非道の長慶」
という図式で描かれがちです。
しかし実態は
「将軍という地位にいるだけで滅茶苦茶やっても許される義輝と、彼のワガママをひたすら耐え忍んだ長慶」
という構図に思えて仕方ありません。
事実、義輝家臣の多くが『長慶と和睦すればいいじゃないか。どうせ勝てないんだし……』と考えていたようで、義輝自身が周囲の人々から信頼を失っていった模様です。
「剣豪将軍」のイメージから華々しく描かれがちな義輝。
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政治力不足という負の側面があったことは間違いなさそうです。
畿内を制して「三好政権」を確立
義輝を追放して以降、自身の兄弟衆や松永久秀の活躍もあり、畿内の実権を握ることに成功した長慶。
ところが、この時期はまだ「細川氏綱の家臣」という位置づけです。
勢力としては他に並ぶ者がいなかったとはいえ、思うように動けない場面もありました。
そこで長慶は徐々に「細川氏綱抜きでの支配体制」を進め、その結果、例えば「四職」の一角・赤松晴政という幕府の重臣ですら傘下に置くような権力を確立してきます。
天文24年(1555年)には、父・三好元長の二十五回忌も実施。
同時期に長慶は「摂津・山城・和泉・丹波、播磨東部」を支配するまでのほぼ天下人に急成長を遂げておりました。
弟たちの勢力圏を加えると「阿波・讃岐・淡路・伊予東部」まで拡大します。
弘治年間(1555~1558年)は大きな戦は発生せず、長慶は「幕府支配」の世から「三好支配」の時代を作るべく、各地の問題解決に奔走して支配力を誇示しました。
その甲斐あって、長慶の名声は朝廷にも響き渡ることになります。
「これからは足利将軍より三好の時代か……」
近衛家や九条家といった名門の公家たちは「これからは足利将軍より三好の時代か……」と考え、義輝との関係を解消、長慶への接近を図ります。
清々しいほどの露骨さですが、長慶自身もこの動きには好意的。
「オレが朝廷を守ってやるぜ!」と言わんばかりに、庇護者として振舞うようになります。
当時の公家たちは、武士の庇護なしには生きられない存在でしたから、公家を飛び越え天皇自身からも頼りにされていたと考えるべきでしょう。
実際、弘治から永禄への改元についても、本来相談すべき相手の義輝ではなく、長慶に連絡が入りました。
しかし、当然ながら、この一件は義輝のプライドを刺激します。
義輝は、自身の権威低下をまざまざと見せつけられ、我慢がならずに近江・朽木で挙兵!
具体的な勝算もないままに立ち上がったのは、このままでは「将軍抜きの政治体制が完全に確立されてしまう」と悟ったのでしょう。
何かせずにはいられない――そんな窮地だったように思います。
長慶が賢いのは、事ここに至って将軍を無下に扱わなかったことでしょう。
諸大名が「武家秩序の崩壊」を意識して危機感を抱いた影響もあってか。永禄元年(1558年)にまたもや和睦が成立。義輝は京都に舞い戻ってきます。
長慶にとっても、この和睦は大きな収穫をもたらしました。
「足利将軍の名」を外交で用いられるようになったのです。
いくら権威が低下しているとはいえ、決して存在感が皆無でもない将軍の肩書には利用場面があり、例えば畿内から離れた地方の戦乱を自身に優位な形で進めるためには効果的でした。
しかも長慶は、以前から「将軍権威の切り崩し」に取り組み、実質的支配も強めています。
義輝らはほとんど傀儡に過ぎず、都での生活は以前と比にならないほど窮屈になっていたでしょう。
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