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【慶長出羽合戦】
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兼続の焦燥
兼続は長谷堂城をなかなか落とせず、焦りを感じていました。
必ず落とせるだろうとは思うものの、時間をあまりに掛けすぎるワケにもいかないのです。
おまけに上山口から進軍していた別働隊は、最上方の里見民部によって撃退されてしまい、計画が狂います。
兼続は家康の動きを察知したうえで、相手が奥羽へと攻めてくることはなく、上方で戦うことを確信していました。
そうなれば、景勝らは家康に備える必要はありません。
「かくなる上は、殿に御出馬願おう」
兼続はそう考え、会津に準備を整えるよう連絡します。
最上も伊達もこの動きを察知し、警戒を強めます。
ここがポイント!
上杉:上山方面の軍勢が敗れて計画がくるった
上杉:直江兼続は上杉景勝の出馬を要請していた
上方からの急報、そして撤退へ
9月15日、関ヶ原では決着が一日でついてしまいました。
しかしそれを知ることもなく、兼続や義光は、遠い出羽で戦い続けます。
その一報が兼続の陣に届いたのは、9月29日のこと。約2週間が経過しておりました。
翌日の30日には、伊達にも関が原の報が届き、さらに早馬で最上にも伝わります。
「今回は流石に負けるよね、駄目だよね……」そんな絶望の中で戦い続けた最上勢は歓喜につつまれます。
そして10月1日から、激しい撤退戦が始まるのでした。
上杉勢は要所に鉄砲隊を配置、追いすがる敵に射撃を加えました。
この戦法は最上勢を苦しめ、義光自身も兜に被弾。最上義光歴史館で展示してある「三十八間金覆輪筋兜」には、なまなましい弾痕が残されています。
この戦いでは、兼続も義光も率先して軍を率いて、積極的に戦いました。
両軍とも激戦の最中、多数の犠牲が出ました。
10月3日、兼続自身は荒砥城に入り、翌4日には米沢に到着。撤退に成功します。
しかし、急いでいたため味方との連絡がつきません。
最上領内に取り残された中には、降伏せざるを得ない者もいました。彼らは翌春、最上勢による庄内攻めにおいて先陣に立たされることになりました。
この撤退戦は「長谷堂合戦屏風」や軍記物に記録されて名高いもの。義光は、兼続の撤退ぶりを絶賛しております。
戦国武将・直江兼続の真価は「義と愛」に非ず~史実に見る60年の生涯
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さて、ここで伊達政宗のコメントを見てみましょう。
「うちは首80くらい取ったかな。最上衆が弱くて大戦果というわけにはいかなかった。撤退では最上衆がマジ弱くて、敵を討ち果たせなくてホントガッカリだよな」
最上衆が弱いというのは、前線にまで総大将が出て行って撃たれた、そういう戦術のまずさを嘆いているのでは、と言われております。
ここがポイント!
上杉:敵よりも早めに関ヶ原の結果を入手していた。しかし情報伝達が不十分であった
上杉:待ち伏せた射撃で、追撃してくる敵に損害を与える
最上:最上義光すら被弾するほど、射撃に苦しめられるものの奮戦。直江兼続は逃したが、上杉の将を降伏させる等戦果をあげた
伊達:最上勢の戦術や実力に不満を感じていた
兼続・義光・政宗たちの戦略戦術
以上が慶長出羽合戦の流れです。
直江兼続は、なかなか積極的に前線に出て、家康の動きを見つつ、戦略を臨機応変に変えています。撤退戦は彼の高い指揮能力が存分に発揮されました。
最上義光も、積極性が裏目に出かねないほど前線に立っています。
圧倒的に不利な状況ながら、よく粘り敵の撤退まで持ちこたえました。
伊達政宗は、この戦いにおいては援軍を派遣したにとどまります。
ただし、この動乱において見事な策謀を発揮しています。政宗の強さである外交や策略の片鱗がうかがえます。
このように、奥羽の錚々たる武将が鎬を削った「北の関ヶ原」は、やはり興味深い戦いと言えるのではないでしょうか。
歴史ファンの一人として、今後、この戦いにスポットライトが当たることを願ってやみません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
国史大辞典
伊東清郎『最上義光 (人物叢書)』(→amazon)