慶長出羽合戦

『長谷堂合戦図屏風』長谷堂城を攻撃する直江兼続/wikipediaより引用

最上家

慶長出羽合戦(北の関ヶ原)では上杉・最上・伊達の東西両軍が激突!その結果は?

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長谷堂城防衛戦

9月14日、直江兼続の軍勢は、ついに長谷堂城まで迫り、包囲を開始します。

長谷堂城と山形城の距離はおよそ8キロ。最終防衛ラインです。ここを落とされると、もう後がないのです。

古くは永正5年(1508年)、伊達稙宗が最上領に侵攻し、長谷堂城を陥落させた際に、当時の当主・最上義定は実質的に敗北した状態にまで追い込まれました。

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とにかく守るしかないデッドライン、長谷堂城――。

この城は、規模はさほど大きくないものの、周囲を深田に囲まれ、須川の流れが天然の堀となって行く手を阻みます。城へと通じる道は険しく、守りの堅い城でした。

そうはいっても、守りを固める志村光安の手勢は僅か千前後しかありません。

山形城から鮭延秀綱らの増援が駆けつけるとはいえ、心もとない状態でした。

上杉勢は堅い守りと敵の反撃にあい、攻めあぐねました。激戦の中、剣豪・上泉主水泰綱も失ってしまいます。

と、この長谷堂の攻防は軍記ベースであり、史実は判然としておりません。鮭延秀綱の回想によると、総大将である最上義光自ら戦場に立ち、奮戦していたとのこと。

更に義光は、嫡男・義康を伊達政宗のもとに派遣し、援軍を請います。

ちなみに義康と政宗は従兄弟同士にあたります(政宗の母が最上義光の妹)。

さて、この頃、伊達政宗はどうしていたのでしょうか。

ここがポイント!

最上:長谷堂城は最上にとって最終防衛ライン

最上:長谷堂城は防御力が高く攻めにくい

上杉:思わぬ苦戦を強いられ、上泉主水泰綱を失う

 

最上と伊達が組んでわずかな勝機

関ヶ原前後の伊達政宗の行動は、不可解に思える点があります。

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7月25日には上杉方の白石城を攻撃、陥落させます。

この時点では上杉領に侵攻する動きを見せていたものの、家康の反転と同時に自らは北目城へと移動します。

9月16日、義光から援軍要請を受けた政宗は、留守政景3千を山形へ派遣することを決定。

このときのやりとりで有名なものは、以下の通りです。

片倉小十郎景綱「ここで上杉に山形を攻め落とさせ、そこを伊達が討ち取ればよいのでは?」

伊達政宗「しかし、山形城には母上がおられる。見殺しにするわけにはいかん!」

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残念ながら、このヤリトリは後世の創作です。

この時点で上杉と伊達の力には大きな差があります。

伊達と最上が同時に別方面から上杉を叩きに行って初めて、少しは勝機も見えてくる――そんな差。最上を吸収した上杉を伊達が倒せるとは到底思えません。

実際はこんなところでしょう。

伊達政宗「あ~、どうすっかな~。最上はウザいけど、ここでやられたらヤバいよなあ。上方からまだ連絡ないのかよ。とりあえず3千送るけどよぉ、政景はそうホイホイ動くなよ。マジでヤバイって時、加勢すりゃいいから」

留守政景「ええっ……そ、そんな」

政宗「最上の領土が全部焼けても、お前は気にすんなって」

政景「えぇ……」

ここで政宗のカーチャン登場……。

義姫「伊達の援軍がそこまで来ているのに、遅い! 一体何してるのよ!!」

留守政景の援軍はなかなか到着しなかったらしく、政景にとって兄嫁にあたる義姫は援軍を急かす書状を夜中まで書き続けました。

結果から先に申しますと、義姫が婚家の伊達と実家の最上をつなぎ、援軍を促す重要な働きを果たすのです。

※大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響で悪女に描かれることもある彼女ですが、実は聡明な女性であることが有力視されており、その詳細については以下の記事を御覧ください。

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政宗は長期戦を見据えていた?

閑話休題。

政宗は、義光が須川を越えたと知ると「須川越えるとか出過ぎでしょ、自重しないと駄目じゃん。お粗末過ぎて見てらんない」と書状を送ります。

ギリギリの攻防を続ける義光と比較すると高みの見物感といいましょうか。もしも最上が落ちたら、自身も危なくなる可能性があるのに、さすが政宗さんと申しましょうか。

そのせいか「同じ東軍同士であるにも関わらず南部領で和賀忠親に一揆を起こさせた」という行動に対しては、マジでコイツ何考えてるんだ?と思われる方も多いかもしれません。

しかし政宗は一人でルール違反をしていたとか、そのせいで「百万石のお墨付き」を反故にされたわけでもありません。

では、政宗は何を見ていたのか?

政宗の行動は、長期戦を見据えたものでした。

このとき、家康があっという間に西軍を倒してしまうとことなど、誰もが予想だにしておりません。

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今回の大戦で、日本は再び乱世に戻るだろう——と、政宗のみならず、多くの大名がそう考えていました。

その時どうするか。

最も有利な状況にするため、積極的に奥羽をかき回してやろうとしていたというのが、政宗の考えです。

その目的からすれば、政宗の行動は理にかなっています。

むしろ、よくぞここまで見事な攪乱をできたものだと感心させられます。

この戦いが早期決着するか、死か。そんな危険な賭けに有り金全部を投じるような行動を取った最上義光は、数少ない例外でした。

しかも、彼自身その賭けに勝てるとは、あまり思っていなかったふしがあります。

ここがポイント!

伊達:政宗は「母親を救うため山形に援軍を出した」わけではない

伊達:政宗は留守政景を山形への援軍を派遣したものの「積極的には動かないように」と命じていた

伊達:政宗の一連の行動は、乱世が再度訪れることを見越してのこと

最上:義光の妹であり政宗の母である義姫が、このときも両家を結びつけ、援軍を促す役割を果たした

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