永禄九年(1566年)11月28日、中国地方の雄・尼子家の本城だった月山富田城(がっさんとだじょう)が開城しました。
毛利元就の攻撃を受け、尼子義久が敗北した一戦ですね。
一般的には【第二次月山富田城の戦い】と呼ばれます。
毛利と言えば中国地方8カ国を制した覇者。
いかにも大大名というイメージですが、実際のところ元就が家督を継いだときは安芸(広島県)の一国衆に過ぎず、以下の地図をご覧のとおり
出雲・伯耆・備中に大勢力を誇る、中国地方の雄・尼子氏は比較にならないほど大きな存在でした。
それがなぜ直接対決で勝利するまでになったのか?
順を追って見ていきましょう。
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第一次月山富田城の戦いでは手痛い敗北
実はこの戦い以前に、元就は月山富田城を攻めたことがありました。
まだ当時の主君である大内義隆が健在のころで、20年以上も前の話。
【第一次月山富田城の戦い(1542~1543年)】と言います。
※以下は大内義隆の生涯まとめ記事となります
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そのころ毛利は大内の傘下だったので、元就も一部将として攻め手に加わっておりました。
しかし、月山富田城は別名「天空の城」と呼ばれたほどの難城で、しかも攻撃側で指揮を取るのが人望を失いつつあった大内義隆ではうまくいくはずがありません。
この戦いで大内軍はあえなく敗退。
退却時の尼子からの追撃は容赦なく、若かりし頃の元就(と言っても40代)もあわや討死の場面へと追い込まれ、家臣が身代わりになってくれたおかげで助かったほどの激戦でした。
ちなみに、このとき元就を助けてくれたのは渡辺通(とおる)という人で、昔は元就ではなく弟の元綱を支持していた人です。
「大内に付いていたらお先真っ暗」
あまりに手痛い大敗を食らった元就は、こう考えるようになります。
「大内に付いていたらお先真っ暗……何とかしないと毛利が滅びる」
そしてその先は謀略を巡らせ、毛利家が生き残る道という名の拡大路線を進みます。
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実際、大内氏は、いとも容易く滅亡への道を転がり落ちていきました。
まずは陶晴賢によって大寧寺の変(1551年)を起こされて、当主だった大内義隆親子が敗死。
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その陶晴賢も、毛利氏との直接対決【厳島の戦い(1555年)】に敗れて、間もなく大内氏自体が滅亡へと追いやられていきます。
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毛利は、中国地方でどんどんのし上がっていきました。
ここまでの流れを年表チャートで確認しておきますと……。
【毛利から見た中国地方制覇の年表】
①1542~1543年 第一次月山富田城の戦いで大内氏が尼子氏に敗北
↓
②1551年 大寧寺の変が起き、大内氏では陶晴賢が台頭
↓
③1555年 厳島の戦いで毛利が陶晴賢を自害させる
↓
④1557年 大内氏を滅ぼし周防・長門をゲット
↓
⑤1560年 名将として知られる尼子晴久没 ※1561年、1562年没の説もあり
↓
⑥1566年 第二次月山富田城の戦い
この流れを押さえた上で注目したいのが石見銀山です。
石見銀山をめぐる争い
上記の通り、第一次月山富田城の戦いは、大内氏と尼子氏の対決に毛利も駆り出されていたというもの。
ゆえに第二次月山富田城の戦いとは大きく趣旨が違います。
弘治3年(1557年)に大内家を滅ぼした毛利氏は、それまでの安芸や備後などに加えて周防や長門を手中に収め、以前とは比にならないほど強大であり、リスクをとってでも尼子と対決する意義がありました。
なぜならそこには石見銀山があったからです。
掘れば掘るだけ国力となる銀の産出は、周辺地域の勢力にとって垂涎の的。
当時、ここを制していたのは尼子氏であり、それがどうしても欲しい毛利は永禄2年(1559年)から攻め込むようになり、両者は熾烈な争いを繰り広げておりました。
地図で、その位置を確認しておきましょう。
・黄色の拠点が毛利の吉田郡山城
・赤色の拠点が尼子の月山富田城
・紫色の拠点が石見銀山
金のなる木である石見銀山を巡った争いは、当初、尼子氏の防御が成功していました。
しかし名将で知られる尼子晴久が永禄3年に月山富田城で病没。
まだ数え16歳の尼子義久(天文9年・1540年生まれ)に家督が譲られると、にわかに流れは毛利氏の有利なほうへ変わっていきます。
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度重なる毛利からの攻撃・調略に負け、尼子氏傘下の家臣・国衆らが次々と毛利に降っていき、永禄5年(1562年)には尼子の重臣・本城常光が寝返り。
その直後、命綱だった石見銀山が、ついに毛利の手中に渡ります。
勢いに乗った毛利軍は、永禄6年(1563年)、月山富田城へ攻め込みました。
「これにて勝負あり!」
そう思いきや、このとき尼子の若い主君を助けたのが、
「我に七難八苦を与えたまえ」
という名文句でお馴染みの山中鹿之介です。
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忠臣・鹿之介らの踏ん張りもあり、永禄6年(1563年)の月山富田城攻めは耐え抜くのです。
しかし、これで諦める毛利ではありませんでした。
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