こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【第二次月山富田城の戦い】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
第二次月山富田城の戦い 1stラウンド
月山富田城の周辺支城も陥落させ、再び本拠地へ毛利軍が迫ったのは永禄8年(1565年)4月のこと。
ここからいわゆる【第二次月山富田城の戦い】が始まったとされます。
毛利軍は、月山富田城に三つある出入り口のそれぞれを毛利元就、吉川元春、小早川隆景が担当して攻撃しました。
三本の矢の逸話でお馴染み元就二男の元春と、三男の隆景ですね。
残念ながら長男の毛利隆元は永禄6年(1563年)に亡くなってしまい、その息子・毛利輝元が後に毛利家当主となります。
いわば毛利家の中心武将が揃った攻撃ですが、尼子家も地の利と忠実な家臣のおかげでしぶとく持ちこたえます。
なんせ第一次月山富田城の戦いのときは、大内氏が約三倍もの兵力を持っていながら守りきったのですから、この城の堅牢さは並大抵のものではありません。
南東以外の三方は断崖絶壁。
さらに南東方向も出入り口に門&壕つきで、地形や外側の構造だけでも城方が圧倒的に有利でした。
やはり力攻めでは無理と判断した元就は、4月下旬に一度兵を退いて体制を整えます。
さすが謀将ですね。無理はしません。
第二次月山富田城の戦い 2ndラウンド
再び攻め始めたのは9月。
梅雨や台風シーズンを避けたのでしょう。新暦ですと10月ですから、稲の狩り入れが終わるかどうかといったタイミングでもあります。
状況を見て一番効果的な攻め方といえば、もちろん兵糧攻めです。
険しい地形であるということは、それだけ兵糧の調達(運び入れ)も難しくなりますから、これは見事に功を奏しました。
この頃には非情も止むなしと考えたか。空腹に耐えかねた将士が降参してきても元就は一切認めず処刑しています。
とはいえ厳密に全員殺したワケではなく、ある時期から降参を認めていたようです。
尼子側も、いよいよ追い詰められたのでしょう。
主君の尼子義久が、大塚与三右衛門という家臣の讒言によって、宇山久兼とその嫡子・弥四郎を殺してしまうという愚行に走ってしまいます。
宇山久兼は、尼子晴久の代から仕えてきた歴戦の重臣で、御家老衆でもありました。
中国地方8ヶ国の王者へ
飯も食えない。
重臣は誤って殺される。
こんな状況では将も兵も士気はダダ下がりとなるほかなく、事ここに至って尼子義久も降伏を決意します。それが11月21日のこと。
そして11月28日に義久その他尼子家の中心人物が出頭・幽閉されることになり、第二次月山冨田城の戦いは終わりました。
開城したときには、当初1万人ほどいた兵が300程度になっていたといいます。
よくぞ持ちこたえたと見るべきかもしれません。
こうして毛利元就は名実共に中国地方を統一し、中国地方8ヶ国(安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆、隠岐)+1ヶ国(伊予)を手中にします。
その手腕、あるいは一族の凄さを知りたい方は以下の記事も併せてご覧ください。
あわせて読みたい関連記事
毛利元就が安芸の小勢力から中国地方8カ国の大大名に!その戦略戦術は神業なり
続きを見る
毛利の躍進を支えた吉川元春(元就次男)の何が凄いのか 勇将の事績と奥方に注目
続きを見る
元就の三男・小早川隆景はキレ者だった~王佐の才は毛利や秀吉に重宝されて
続きを見る
元就の長男・毛利隆元はどんな武将だった? 失って初めて実感する跡取りの偉大さ
続きを見る
西国一の戦国大名だった大内義隆はなぜ滅んでしまったのか?45年の生涯まとめ
続きを見る
なぜ戦国時代の大内家重臣・陶晴賢は下剋上を起こし最終的に毛利に滅ぼされたのか
続きを見る
厳島の戦いで毛利軍の奇襲が炸裂! 陶晴賢を破って元就が中国地方の覇者へ
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
渡邊大門『山陰・山陽の戦国史 (地域から見た戦国150年 7)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
月山富田城の戦い/wikipedia