織田家 信長公記

桶狭間の戦いで信長が勝てたのは必然か『信長公記』にはどう書かれた?

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桶狭間の戦い
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天候は信長たちに味方した

家臣たちはなおも止めたそうですが、信長は次のように分析しておりました。

「今川の兵は夜通しの行軍や兵糧の運び入れ、鷲津・丸根の攻略で疲れているはずだ!

こちらはまだ体力を残した兵ばかり。

必ず勝ち目はある!

勝ちさえすれば、末代までの名誉となろう。ひたすら励め!」

内容としては至極まっとうですね。

また、このタイミングで、前田利家など多くの信長側近が、手に手に今川方の首を取って馳せ参じたといいます。

これも他の将兵を奮い立たせたかもしれません。

実は利家は、桶狭間の戦いのしばらく前に、さる事情から織田家を出奔していたのですが……ちょっと経緯がややこしいので、詳細は以下の記事でご確認ください。

前田利家(織田家の重臣)血気盛んな槍の又左は加賀百万石をどう築いた?

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そして午後1時頃――ついに天が信長に味方します。

信長軍の背後から、激しい雨が降り出したのです。

原文では「石水混じり」と書かれているため、ただの暴雨ではなく、霰(あられ)や雹(ひょう)だったのかもしれません。

こうした氷の粒は季節に関係なく降ります。

上昇気流で急に冷やされた水蒸気が、氷となって地表に落ちてくるものですから、近年の記録では春~夏が多いくらいですね。

当然、桶狭間の戦いのときに降ったとしてもおかしくはありません。

信長軍の背後から降ったということは、今川軍にとっては正面から降られたということになります。

ただの雨でも目に入れば痛いですし、霰・雹ならなおのこと。

今川軍が休息中だったからまだマシなものの、行軍中だったとしても、急いで進軍をやめて兵を休ませる場所を探していたでしょう。

そんな状況で、信長軍は沸き立っておりました。

「これは、熱田大明神の神慮か!」

正面から近づくにせよ、絶好のタイミングでありました。

相手の軍が縦長に隊列を組んでいたら、囲まれて一網打尽にされるようなリスクもありません。

まさに勝機がそこに――。

 

にわかに義元本隊は大混乱に陥った

やがて晴れると、信長は自ら槍を手に取り、大声で「掛かれ!」の合図をしました。

信長公記に位置関係が全く書かれていないのが残念ですが、おそらくこの時点で今川本陣のかなり近くにいたはず。

義元は輿を使っていたといいます。

それなら遠目でも視認できた可能性はありましょう。

荒天からの晴天に、油断しきっていた状態を突かれ、にわかに義元本隊は大混乱に陥ります。

混乱はますます激しくなり、輿の担ぎ手も皆逃走。

義元も、仕方なく騎馬で逃げようとしたのだとか。

しかし午後2時頃、ついに織田方が義元を発見します。

今川方の兵300ほどが義元を守ろうと立ちふさがったものの、織田軍が攻めては引き、引いては攻めを繰り返し、やがて50ほどにまで減りました。

信長自身も馬を降りて白兵戦を演じ、側の若武者達も奮戦していたようです。

そのぶんお馬廻りや小姓など、信長の側近たちも多くが討ち死にしていました。

義元本人には、まず服部春安(一忠・小平太)という者が打ちかかりました。

しかし彼は義元に反撃されて膝を斬られ、下がらざるをえなくなります。

続いて、毛利良勝という者が義元を切り伏せ――。

ついに首を取ります。

海道一の弓取り(東海道でNo.1の武士)と畏怖された義元のあっけない最後。

桶狭間で義元を討った二人~毛利新介と服部小平太はその後どうなった?

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大軍であればあるほど、総大将が討たれれば混乱を極めるものです。

中には泥田の中に逃げようとした者もいましたが、案の定、多くが織田兵に討ち取られていきました。

人々は良勝の手柄を「清州城で尾張守護が殺されたとき、毛利十郎が守護の幼い息子を助けていた。この度の手柄は、それに対する神仏の冥加だ」と評したとか。

十郎と良勝の血縁関係は不明なものの、当時の人々がそう評したということは、近い血筋か義理の親子、あるいは縁戚などの繋がりがあったのかもしれません。

 

実質的には数千の敵だった

信長は、義元の首だけをこの場で検分。

「他の首は清洲で見る」と言って、日のあるうちに清洲へ帰りました。

翌日の首実検では、実に3000以上の首があったといわれています(ちょっと盛り過ぎ?)。

両軍の兵数についてはおおよその推定値ながら、少なくとも今川軍のうち直接交戦した数だけでも、織田軍の2倍以上はありました。

逆に考えれば、たとえ数万の敵だとしても、実質は数千と戦ったと考えられ、この勝利が単なる偶然だったとも言いきれません。

前述の通り、信長が引き連れていた馬廻衆は、日頃から軍事を専門にした生粋の武士ばかりで、今川兵の多くを占めていた雑兵など敵ではなかったからです。

織田軍2,000のうち全部が馬廻衆ではありませんが、700~800はいたと考えられます。

全軍の半数が日頃から合戦を繰り返していたプロですから、そりゃもう雑兵の数倍は戦闘力があるとも考えられます。

つまりは完全な織田軍の勝利だったのですね。

信長は義元の首を馬の先に掲げて凱旋し、その後の始末もきちんとしています。

清洲から20町(約2.2km)ほど南のあたりに「義元塚」を築かせ、ここで僧侶に読経をさせた上で大きな卒塔婆を立て、義元を始めとしたこの戦の供養としたのです。

今川義元の首塚(東向寺)photo by 戦国未来

また、鳴海城にこもって交戦を続けていた、義元の重臣・岡部元信から

「降伏する代わりに、主の首をお返し願いたい」

という申し出があったため、僧侶十人と共に首を送り届けています。

残虐な魔王という姿ではなく、そこにあったのは敗軍の将をいたわる勝者の威風でした。

桶狭間古戦場公園の織田信長(左)と今川義元

 

愛刀「義元左文字」を本能寺のときまで側に置き

この戦いで、信長はもう一つ名物を得ました。

義元が桶狭間の戦いで差していた、左文字の刀です。

信長はこの刀をいたく気に入り、自分の体格に合わせて磨り上げさせ、佩用(はいよう・身につけること)したと伝わります。

左文字というのは刀工の名前で、当時から名品。

元々は三好宗三(政長)が武田信虎に贈ったものだったので「宗三左文字」と呼ばれていたのですが、信長の手元に移ってからは「義元左文字」と称されるようになったといいます。

信長が手にした刀の中でも特にお気に入りで、本能寺の変のときにも手元にあったというのはなんだか皮肉でもありますね。

その後は豊臣秀吉豊臣秀頼徳川家康以降の江戸幕府将軍の手を経て、明治維新以降は信長と息子・織田信忠を祭神とする建勲神社(京都市北区)に所有されています。

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ともかく「海道一の弓取り」の首と、名刀の二つを得た信長。

その後は美濃斎藤氏との決着をつけるために動いていきます。

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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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