桶狭間の戦い

毛利新助と服部小平太が襲いかかる(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用

織田家 信長公記

桶狭間の戦い 信長の勝利は必然か『信長公記』にはどう書かれてる?

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午前8時頃に丸根・鷲津砦が陥落

信長はまず、小姓五人だけを連れて一気に熱田まで馬を走らせました。

ここでいくらかの兵を待ったのです。

が、午前8時頃に丸根・鷲津砦が陥落したときでも、集まったのは騎馬がわずか6騎、兵は200ほどだったといわれています(実際に攻撃に移すとき2,000~3,000騎になっています)。

また、熱田神宮に戦勝祈願を行いました。

信長の信仰心については議論の余地があるものの、当時の人々にとって「神仏の加護」というものは非常に大きな意味を持ちます。

熱田神宮本宮

信長からすると、参拝した後に良いことが起これば「熱田の神の加護ぞある! 神は我らに味方しているぞ!」とすれば、兵の士気が格段に上がります。

逆に悪いことが起きても「厄払いは済んでおる! 気にせず進め!」とでも言っておけば、混乱による戦線崩壊は防げる――そんな計算があったのではないでしょうか。

もちろん、信長が武神である熱田神宮を本当に信仰していた可能性もありますが。

その場合は、兵と共に自分の心を落ち着ける意味もあったのでしょうね。

 

善照寺砦で将兵を集めて戦況を確認

熱田神宮から先は、海沿いのほうが近道です。

ただし、それでは潮の満ち引きの影響を受けかねません。

そのため、信長軍はまず熱田から丹下砦へ向かい、それから善照寺砦へ行って、再び将兵を集めて戦況をうかがいました。

この時点で5月19日の午前10時頃だったようです。

一方、丸根・鷲津を落としたという報告を受けた今川義元は、上機嫌で休息をとっていました。

この両砦を落としてしまえば、次のターゲットは丹下砦・善照寺砦・中島砦(織田)の3つです。

と、ここで今川軍はいったん休憩をはさみました。

この休息地点こそが、桶狭間だったといわれています。

同じく5月19日の正午頃に義元は、謡(うたい)を三番歌っていたといいますから、完全に物見遊山気分だったのでしょう。

実は丸根・鷲津の両砦を落としたのは、当時、今川配下だった松平元康(のちの徳川家康)と朝比奈泰朝たちの軍です。

徳川家康
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元康にとって、この戦は今川氏への忠誠を示さねばならないところ。

早朝からの猛攻によって、その目的は果たしたものの、当然疲労はピークに達していました。

そのため彼らもまた、義元本隊とは別の場所で休息していたようです。

かくして、いよいよ本番を迎えます。

視点を織田軍側に戻しましょう。

信長が善照寺砦に入ると、そのことを知った織田方の将、佐々政次と千秋季忠が、300ほどの兵で今川軍に突撃をかけました。

しかし、両名とも討死の上、50人ほどの兵も失ってしまいます。

彼らが信長の後詰を期待して逸ったのか。時間稼ぎのために自らを犠牲にしたのか。目的は不明です。

いずれにせよ、信長はじっと好機を待ち、義元はますます上機嫌になっていました。

そして、このあたりで信長が「善照寺砦から中島砦へ向かう」と主張し始めると、家臣たちが必死に止めにかかります。

なぜなら、善照寺砦から中島砦までの道は、両側に深田が広がっていて、馬で通るとしたら一騎ずつ縦に並ばざるをえなかったからです。

右側の白い道が奇襲で用いたと考えられた迂回路ですが、実際に使ったという記述はありません

つまり、信長軍が小勢であることを、自ら見せに行くようなもの。

そりゃ家臣としては止めますよね。

しかし、信長は彼らを振り切って中島砦へ向かい、ここで本格的に出陣の準備をしました。というのも……。

 

天候は信長たちに味方した

家臣たちはなおも止めたそうですが、信長は次のように分析しておりました。

「今川の兵は夜通しの行軍や兵糧の運び入れ、鷲津・丸根の攻略で疲れているはずだ!

こちらはまだ体力を残した兵ばかり。

必ず勝ち目はある!

勝ちさえすれば、末代までの名誉となろう。ひたすら励め!」

内容としては至極まっとうですね。

また、このタイミングで、前田利家など多くの信長側近が、手に手に今川方の首を取って馳せ参じたといいます。

これも他の将兵を奮い立たせたかもしれません。

実は利家は、桶狭間の戦いのしばらく前に、さる事情から織田家を出奔していたのですが……ちょっと経緯がややこしいので、詳細は以下の記事でご確認ください。

前田利家
前田利家~槍の又左62年の生涯~信長に追放されてもド派手に復活!

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そして午後1時頃――ついに天が信長に味方します。

信長軍の背後から、激しい雨が降り出したのです。

原文では「石水混じり」と書かれているため、ただの暴雨ではなく、霰(あられ)や雹(ひょう)だったのかもしれません。

こうした氷の粒は季節に関係なく降ります。

上昇気流で急に冷やされた水蒸気が、氷となって地表に落ちてくるものですから、近年の記録では春~夏が多いくらいですね。

当然、桶狭間の戦いのときに降ったとしてもおかしくはありません。

信長軍の背後から降ったということは、今川軍にとっては正面から降られたということになります。

ただの雨でも目に入れば痛いですし、霰・雹ならなおのこと。

今川軍が休息中だったからまだマシなものの、行軍中だったとしても、急いで進軍をやめて兵を休ませる場所を探していたでしょう。

そんな状況で、信長軍は沸き立っておりました。

「これは、熱田大明神の神慮か!」

正面から近づくにせよ、絶好のタイミングでありました。

相手の軍が縦長に隊列を組んでいたら、囲まれて一網打尽にされるようなリスクもありません。

まさに勝機がそこに――。

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