100万石もの家あれば、歴史の彼方に葬り去られる一族もある――。
武士の浮き沈みがハッキリ分かれた戦国時代。
中でも反骨の気魄を見せながら、天正16年(1588年)閏5月14日に散ったのが佐々成政です。
徳川家康の決定に異を唱えるため、あの時代に【真冬の飛騨山脈】を越えるという、自殺行為なエピソードなんかが残されていたり。
秀吉に対抗する武将としてフィクションにも度々登場したり。
では、史実の佐々成政とは一体どんな武将だったのか?
さっそく振り返ってみましょう。
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佐々成政の出自は不明 父の代から織田家に仕え
佐々成政の生年は、正確な年月日は残されておらず、天文五年〜八年(1536〜1539年)頃と考えられています。
1534年生まれの信長より少し下の世代ですね。
他の戦国武将の多くと同様、祖先について詳しいことはわかっていません。
ただ、少なくとも父の代から織田家に仕えておりました。
【稲生の戦い(1556年)】や【桶狭間の戦い(1560年)】など、信長が若い頃の戦にも、佐々成政は兄二人とともに参加したとされています。
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しかし、これらの戦で兄たちが相次いで戦死したため、永禄三年(1560年)に佐々成政が家督を継ぎ、比良城主となりました。
その後は信長vs斎藤龍興の【森部の戦い】などで戦功を挙げるなど、織田家の成長と共に出世を果たし、永禄十年(1567年)には黒母衣衆の一員にもなっています。
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信長側近「黒母衣衆」だった
「母衣衆」というのは、この場合、信長直属の使番のことです。
佐々成政が所属していた黒母衣衆と、前田利家などが務めていた赤母衣衆がありました。
この二つの部隊、正式な立場はほぼ同格でした。
しかし実際は、黒母衣衆のほうが年長者が多く、心情的にはこちらのほうが上に見られていたようです。
他の織田家家臣が「黒母衣衆の人たちは覚えてるけど、赤母衣衆のほうは誰がいたんだかよくわからない」などと述べたこともありました。
まぁ、単に、その人にとっての印象の差かもしれませんが……。
母衣(ほろ)というのは古くからある武具の一つで、鎧の背中側に幅の広い布をつけ、風でふくらませるものです。
背後からの弓や投石による攻撃を防いでいました。
戦国時代には赤や黄色など、目立つ色の母衣が好まれるようになり、それ故に使番の装備として定着したのです。
そういう大事な役目に抜擢されたということは、信長の信頼が厚かったということにもなりますし、成政も日頃から主君をリスペクトして付き従っていたことが窺えますね。
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