桶狭間の戦い

毛利新助と服部小平太が襲いかかる(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用

織田家 信長公記

桶狭間の戦い 信長の勝利は必然か『信長公記』にはどう書かれてる?

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なぜ今川は大軍を派遣したのか?

桶狭間の戦い前の織田と今川は、どのような状態だったのか?

3行でまとめるとこうなります。

・信長の父である織田信秀の代から、ちょくちょく戦っていた

織田信秀
織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯

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・織田から今川に寝返った武将がいて尾張の一部が侵食される

・義元がいよいよ本腰入れて尾張に侵攻してきた

絵・富永商太

そもそもなぜ今川は大軍を派遣したのか?

かつて広く信じられていた、京都を目指す「上洛説」は、今では「あり得ない話」とされています。

なぜなら仮に織田を破っても、その先に美濃の斎藤や近江の浅井・六角などがいて、「そこから、どうやって進むの?」という大きな問題があるためです。

ゆえに現在では、今川と織田の国境周辺にある城の奪い合い――それが桶狭間の戦いの定説となっていて、実際、そんな動きはありました。

織田と今川の両勢力が、国境付近の城をめぐって様々な対策を打っているのです。

詳細は前回(35話)をご覧いただくとして、

来るなら来やがれ桶狭間・準備編~戦国初心者にも超わかる信長公記35話

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ここでは端的にマトメながら、本編へと進みましょう。

 

義元は沓掛城へと軍を進めてきた

ときは永禄三年(1560年)5月。

新暦では梅雨真っただ中の時期に今川義元は軍を起こしました。

今川義元
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義元は17日、自らの勢力下にある

・沓掛城

に布陣し、織田領内の入り口に差し掛かります。

ここから最も近い敵(織田勢)の拠点は、

・丸根砦(佐久間盛重)
・鷲津砦(織田秀敏)

です。

文字だけだとややこしいので地図を表示しておきましょう。

◆地図確認①

まず以下の赤いマークが、事前に織田から今川へ寝返っていた3つの城となります。

右から
・沓掛城
・鳴海城
・大高城
で、地図中央の紫色が熱田神宮、左上の黄色が信長の本拠地・清州城です。

今川方に寝返った赤色3城を力攻めで落としても被害が大きすぎる――ということで、信長は、その動きを押さえるため、それぞれの付近に砦を築きました。

戦国用語的には付城(つけじろ)と言いまして、敵の城を攻撃&監視するための砦となります。

それが以下の地図で確認できます。

◆地図確認②

今川になびいた城に対して、信長が対抗策として築いた砦が以下の黄色い拠点です。

地図を少し拡大して見てみましょう。

◆鳴海城(中央赤)
に対して信長は、
・丹下砦
・善照寺砦
・中島砦
を築いています。

◆大高城(左赤)
に対しては、
・丸根砦
・鷲津砦
の2砦を設置しておきました。

◆沓掛城(右赤)
については、信長が手出しできず放置となっていたところです。

ゆえに今川義元も悠々とここへやってきたのですね。

一方、鳴海城と大高城は、上記のように信長もプレッシャーをかけておりますから、ここら辺が衝突のポイントとなるのは両者共に想像できるところでしょう。

実際、織田方の諸将は、今川軍の様子を観察し、信長へ以下のように報告しております。

「今川軍は、18日に大高城への兵糧を補給し、19日には我が軍へ攻め寄せるかと思われます」

織田にとっては残念なことに、大高城への補給を成功させてしまったのです。

それを取り囲んでいる
・丸根砦
・鷲津砦
はピンチとなります。

 

信長「人間五十年、下天のうちをくらぶれば」

今川方に大高城への補給を許してしまった――。

その一報を受けた信長の本拠・清州城では、にわかに緊張が走り、重臣が集まりました。

が、肝心の信長が、今後の方針を決めるための軍議を開きません。

日常と変わりない報告を受けたり、世間話などをしただけで、さっさと家臣たちを帰してしまうのです。

そのため「運の尽きるときには、知恵の鏡も曇るというが、今の殿はまさにそうなのだな」と呆れる者もいたとか。

もちろん著者である太田牛一の脚色という可能性もありますが、仮に事実だとすれば、

【この時点でもなお、信長が家臣の心を掌握しきれていなかった】

ということは否定できません。

信長自身、この日は早く休んだものと思われます。

なぜかというと、19日の未明、丸根・鷲津の両砦から「今川軍の攻撃が始まりました」と報告が入ったとき、すぐに戦支度を始め、立ったまま食事を済ませて飛び出したからです。

ここで象徴的なエピソード。

武装する前に、信長は『敦盛』を舞ったのです。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」

絵・富永商太

余裕ぶっこいてた?
というよりは、むしろ心に余裕がないからこそ、好きな曲を舞って気持ちを落ち着けようにも思えます。

大将が「でん」と構えていないと、配下の将も兵も落ち着けませんからね。

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