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【さらさら越え】
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富山から浜松へ行くルートは限られていた
まず、日本海側にある黄色い拠点が、成政の本拠地・富山城です。
太平洋側の赤い拠点が浜松城になります。
では、富山城→浜松城へ行くにはどうすべきか?
一般的に考えられるルートは、西の加賀なり東の越後なりを目指してから南下する道でしょう。
平時ならば馬も使えて、北海道や九州を目指すような絶望的な距離でもありません。
しかし、戦時においてはそうも言ってられず……。
特にこのときは、西の前田家、東の上杉家が敵として立ちはだかっており、とてもじゃないけど少人数で抜けられるものではありませんでした。
「ならば一直線に南下すりゃええでよ!」
そう思うかも知れませんが、南の美濃は秀吉の勢力圏があって、こちらも通行不可能でした。
そこで浮上してきたのが「さらさら越え」だったのです。
富山から北アルプス山中のザラ峠を越え、信濃の信濃大町へ向かい、その後は長野の盆地を南下していくルートです。
上の地図で言うと紫色の地点を進むワケですね。
【さらさら越え】
富山城(黄色)
↓
ザラ峠(紫色)
↓
信濃大町(紫色)
↓
浜松城(赤色)
信濃なら徳川の勢力圏にあるので安心して歩ける(はず)。
しかし旧暦の12月上旬は現在でいう1月上旬頃のこと。
雪山を徒歩で越える方がよっぽど危険ですが、それ以上に、戦時における他国の通行が危険だったということでしょう。
実際はもう少し標高の低い安房峠辺りだったのでは?
かくして12月に入り、成政は決死の覚悟で富山を出発。
富山城から出たのか、他の支城から出たのか不明ですが、極寒の【ザラ峠(佐良峠とも)】を無事に通り抜けると、信濃経由で25日には浜松へ到着しました。
約3週間の行程というところでしょうか。
しかし、そうまでして会いに行った家康の返事はつれないものでした。あっさり断られます。
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史実の徳川家康は三度の絶体絶命をどう乗り越えた?天下人の生涯75年
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家康にしたって、無理な話でしょう。
すでに終戦から結構な日数が経過していて、今さらの挙兵に大義名分もくそもない。
結局、家康に断られてしまった佐々成政は、続いて織田信雄や滝川一益などにも断られてしまい、失意のままの帰国を余儀なくされます。
なお、このとき成政の年齢50歳ぐらいだったと思われ(生年不詳)、いかに日頃から身体を鍛えている武士であっても、標高2,000〜3,000mの北アルプス、しかも冬に「さらさら越え」することは不可能でしょ――という意見もあります。
そのため近年では別ルートを通ったのではないか、という指摘もされております。
例えば安房峠(あぼうとうげ・標高1790m)あたりなら、少しばかりラクになるというものです。
あるいは上杉家の家臣に手引きをしてもらって越後を通ったという指摘もあったり、いささか混沌としている状況です。
いずれにせよ戦国武将、いや佐々成政の胆力には感服するばかりです。
結局、この後、秀吉に攻められながら許されて肥後(熊本)を任されるのですが、そこで大規模な国人一揆を誘発していしまい、最終的に切腹へ追い込まれます。
佐々成政の生涯についての詳細は、以下の記事をご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)