織田信長といえば「革命児」。
おそらく日本人の大半がこうしたイメージを持っているでしょう。
ところが、一つ一つの事象を追っていくと、そうとも言い切れない。
保守派とまでは言いませんが、現代なら「革新」ではなく、せいぜい「穏健改革派」ぐらいではないでしょうか。
その証拠の一つに信長は、平安時代以降の伝統ながら戦国時代には途絶えていた天皇の「院政」を復活させようとしていたことがあります。

織田信長/wikipediaより引用
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戦国大名の隠居と天皇の譲位は違う
信長の頃の天皇は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)です。
譲位というのは皆さんのご存知の通り。
「天皇の地位を譲って隠居しませんか? するでしょ!」
正親町天皇に対し、信長がそう言ったとなると、まるで暴君のようですよね。
しかし戦国大名が隠居するのと天皇が譲位するのでは意味が違います。
天皇というのは、祭祀関係の儀式がたくさんあって超多忙。
そんなこともあり、平安時代に「外戚の影響を薄めて、もっと政治とかしたいから、天皇は若いのに譲り、俺は自由にやらせてもらうよ」と、始まったのが院政でした。
政治を動かす「上皇(元天皇)」と、表向きの儀式をこなす「天皇」という役割分担によって、それなりにうまく動いていたんですね
ただ、最高権力者が二人いれば、屋敷もスタッフもコストがかかる。
そのため、武士の世になり、幕府側にも「最高権力者」が生まれると、朝廷はコストを負担できず、上皇(院)を「作れなく」なっていたのです。
それ以前、最後に譲位が行われたのは、正親町天皇の4代前の後花園天皇です。

後花園天皇/wikipediaより引用
15世紀後半だから約100年。
この朝廷没落のことを古い用語で「式微(しきび)」といいます。
王政復古の鐘を鳴らした「革命児」
そんなときに、将軍・足利義昭を追放し、朝倉義景・浅井長政を滅ぼして昇り龍の信長が「譲位やる? お金は私が出しますんで」と言ってくれたのです。
朝廷にとっては、渡りに船。
時は天正元年(1573年)12月8日のことでした。
公家である中山孝親(たかちか)の日記『孝親公記』に「雪が降っていた12月8日、織田弾正忠(信長)から譲位の申し入れがあった」という記録が残されています。
信長の申し出に対して天皇は
「朝家再興の時いたり候と、たのもしく祝いおぼしめし候」
「正親町天皇宸筆御消息案」
『京都御所東山御文庫記録』
と、お礼のお手紙を送るほどです。
意味がわからなくても、なんだか喜んでいるなぁという感じは伝わるでしょう。
なんせ正親町天皇もこの時点で57歳ですから、当時の寿命を考えれば切実な場面。
皇太子の誠仁親王(さねひとしんのう)も22歳を超えていて、朝廷としてもやる気満々でした。
しかし、公家皇族が厄介なのは、言い出したら【即実行!】とならないところ。
伝統と格式の世界なので、陰陽師に「譲位したいのだけど、来年はどうかな?」と諮問するのです。
すると「いや、来年はお日柄が悪い。再来年にしたほうがいい」なんて占いを出されると、もうこれでストップ。
実際、この時もそうなりました。すると……。
結局9年間も譲位は伸び伸びとなり……本能寺
信長の打診を受けたのは年末12月のことでした。
そこで朝廷サイドは、来年(1574年)に譲位をしよう!となったのですが、いざ来年になったら「年回りが悪い」として、また延期。
なんせ100年ぶりの大儀式ですので、昔の譲位のやり方をひっぱり出したり、物を作ったり、何かと慌ただしく、朝廷サイドとしては時間を稼ぎたかったのかもしれません。
信長は、現代イメージの「革命児」ではないとは冒頭に申し上げましたが、別に保守派でもありません。
朝廷のノンビリ過ぎるペースについていけなくなったのでしょう。
今度は、信長が金を出さないと始まらない上皇のためのお屋敷新築が進まず、結局、9年間、譲位はのびのびになって、本能寺の変に至ってしまいました。
ちなみに伊勢神宮の式年遷宮は信長の生前に話が進み、実際は死後に行われています。
大河ドラマ『麒麟がくる』では神仏や朝廷を蔑ろにする印象が強かったですが、あくまで脚本上の流れであり、史実ではそこまで否定派でなかったことも見えてきますね。
なお、誠仁親王は結局即位することはできず、その第一皇子であり、正親町天皇の孫となる後陽成天皇が天正14年に107代の天皇となっています。
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【参考】
谷口克広『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』(学研)(→amazon)





