織田信長といえば「革命児」。
おそらく日本人の大半がこうしたイメージを持っているでしょう。
ところが、一つ一つの事象を追っていくと、そうとも言い切れない。
保守派とまでは言いませんが、現代なら「革新」ではなく、せいぜい「穏健改革派」ぐらいではないでしょうか。
その証拠の一つに信長は、平安時代以降の伝統ながら戦国時代には途絶えていた天皇の「院政」を復活させようとしていたことがあります。
※以下は織田信長の生涯まとめ記事となります
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戦国大名の隠居と天皇の譲位は違う
信長の頃の天皇は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)です。
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二人の微妙な関係は、当サイトでも恵美嘉樹さんが書いた「織田信長は皇位を狙っていた!の噂は本当か?」という記事と多少かぶりますが、ご了承ください。
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信長「天皇の地位を譲って隠居しませんか? するでしょ!」
信長がそう言ったとなると、まるで暴君のようですよね。
しかし恵美さんの記事でも触れられているように、戦国大名が隠居するのと天皇が譲位するのでは意味が違います。
天皇というのは、祭祀関係の儀式がたくさんあって超多忙。
そんなこともあり、平安時代に「外戚の影響を薄めて、もっと政治とかしたいから、天皇は若いのに譲り、俺は自由にやらせてもらうよ」と、始まったのが院政です。
政治を動かす「上皇(元天皇)」と、表向きの儀式をこなす「天皇」という役割分担によって、それなりにうまく動いていたんですね
ただ、最高権力者が二人いれば、屋敷もスタッフもコストがかかる。
そのため、武士の世になり、幕府側にも「最高権力者」が生まれると、朝廷はコストを負担できず、上皇(院)を「作れなく」なっていたのです。
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それ以前、最後に譲位が行われたのは、正親町天皇の4代前の後花園天皇です。
15世紀後半だから約100年。
この朝廷没落のことを古い用語で「式微(しきび)」といいます。
王政復古の鐘を鳴らした「革命児」
そんなときに、将軍・足利義昭を追放し、朝倉義景・浅井長政を滅ぼして昇り龍の信長さんが「譲位やる? お金は私が出しますんで」と言ってくれたのです。
朝廷にとっては、渡りに船。時は天正元年(1573年)でした。
信長の申し出に対して天皇は
と、お礼のお手紙を送るほどです。
意味がわからなくても、なんだか喜んでいるなぁという感じは伝わると思います。
こうしてやる気満々の朝廷ですが、公家皇族が厄介なのは【即実行!】とならないところ。
伝統と格式の世界なので、陰陽師に「譲位したいのだけど、来年はどうかな?」と諮問するのです。
すると「いや、来年はお日柄が悪い。再来年にしたほうがいい」なんて占いを出されると、もうこれでストップ。
実際、この時もそうなりました。すると……。
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