正親町天皇と織田信長/wikipediaより引用

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譲位を迫る織田信長になぜ正親町天皇は大喜び? 100年ぶりの院政は夢叶わず

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結局9年間も譲位は伸び伸びとなり……本能寺

信長の打診を受けたのは年末12月のことでした。

そこで朝廷サイドは、来年(1574年)に譲位をしよう!となったのですが、いざ来年になったら「年回りが悪い」として、また延期。

なんせ100年ぶりの大儀式ですので、昔の譲位のやり方をひっぱり出したり、物を作ったり、何かと慌ただしく、朝廷サイドとしては時間を稼ぎたかったのかもしれません。

信長は、現代イメージの「革命児」ではないとは冒頭に申し上げましたが、別に保守派でもありません。

朝廷のノンビリ過ぎるペースについていけなくなったのでしょう。

今度は、信長が金を出さないと始まらない上皇のためのお屋敷新築が進まず、結局、9年間、譲位はのびのびになって、本能寺の変に至ってしまいました。

ちなみに伊勢神宮の式年遷宮は信長の生前に話が進み、実際は死後に行われています。

大河ドラマ『麒麟がくる』では神仏や朝廷を蔑ろにする印象が強かったですが、あくまで脚本上の流れであり、史実ではそこまで否定派でなかったことも見えてきますね。

なお、誠仁親王は結局即位することはできず、その第一皇子であり、正親町天皇の孫となる後陽成天皇が天正14年に107代の天皇となっています。


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川和二十六・記

【参考】
谷口克広『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』(学研)(→amazon

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