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【陶晴賢】
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衆道の主従関係だったとも
もう一つは、これまた戦国時代によくあるアノ話です。
義隆と晴賢は若いころ衆道(男色)関係にあったため、次第に相良武任(さがらたけとう)という家臣が寵愛されていくことが晴賢にとっては耐えがたかった――というものです。
衆道は単なるごにょごにょだけでなく、主君と家臣の絆が強まり、出世のキッカケにもなりました。
忠誠と愛情の入り混じった複雑な関係だったのでしょうね。
日本が「男色・衆道に寛容だった」という説は本当か?平安~江戸時代を振り返る
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国史大辞典によると、晴賢は幼い時は美少年で、文化的素養はなかったと書かれています。
つまり、美貌だけで通った若い時期が過ぎて、教養が求められる大人になってからは……という?
一方、恋のライバル武任は文官肌の人で、実際に能力もありますが、晴賢にとっては目の上のたんこぶでしかなく。
「殿がヤワな思考になってしまったのは、アイツがたぶらかしたからに違いない。
現に、殿はアイツに政務を任せっきりじゃないか!
アイツが殿を言いくるめて、自分のやりたいようにやってるんだ!おのれええええええええ!!アーッ!」
……というように、嫉妬と忠誠と猜疑心を爆発させてしまったんじゃないか?という話です。
まぁ、陶晴賢らの武断派(武力を中心とした一派)と、相良武任ら文治派(行政を中心とした一派)らの対立というがあり、その権力争いだった――という見方が自然ですね。
毛利が中国地方の覇者に
さて、新しく当主を決めたものの、その後の大内氏は歴史から消えていってしまいます。
そりゃ、理由があったとはいえ主君を殺した家臣がそのまま家の中にいるのですから、周りからは評判悪いですよね。
大内氏に従っていた周辺の領主達も「もうアンタの家はイヤでーす」とばかりに次々と離反していってしまいます。
替わりに出てきたのが、かの毛利元就でした。
天文24年(1555年)、元就が表舞台に出てくるキッカケとなった【厳島の戦い】が勃発。
大寧寺の変で弱体化した大内氏は、毛利氏の前に敗れてしまいます。
結果、晴賢は35歳の若さで戦死してしまいました。
皮肉なことに、晴賢は主家を再興するどころか元就の前座になってしまったのです。
厳島の戦いは、毛利元就による鮮やかな奇襲が炸裂した戦いとして知られます。
詳細は以下の記事にありますので、よろしければ併せてご覧ください。
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長月七紀・記
【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典 コンパクト版』(→amazon)
陶晴賢/wikipedia
大内義隆/wikipedia