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戦国大名はどうやって戦国大名になった? 18武家の成り立ちを見てみよう!

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佐竹氏

河内源氏の二代目・源頼義の孫・義業(源義清の兄)を先祖としています。

武田信玄と、だいぶ前の根っこが同じというワケですね。

佐竹氏を名乗るようになるのは義業の子・昌義の代からです。

時期としては12世紀前半。

平清盛や源義朝(頼朝のトーチャン)が生まれるちょっと前くらいの話です。

そこから半世紀程度で佐竹氏は常陸南部~下総をシマにしたといわれています。仕事が早いですね。

源平合戦では平氏方についたため、頼朝に追討されて一時所領を失いました。

が、奥州藤原氏との戦いで頼朝軍に参加、その恩賞として常陸に幾ばくかの領地をもらったようです。

その後の常陸での活動は定かではなく、美濃や伊勢で佐竹氏が活動していたらしきことが記録されています。って、どういうことなのよ(´・ω・`)

鎌倉幕府の滅亡後は足利尊氏に従い、常陸守護職を与えられて平安時代の所領をほぼ回復、さらに陸奥南部から常陸中央部まで進出していきました。

なんだか順調なように見えますが、この先は、家が断絶しかけたり、あろうことか藤原氏系である上杉憲定の子・竜保丸(のち義人)を養子にしたりして家中の混乱を招いたりもしてします。

戦国大名として有名な義重・義宣の代は比較的安定していました。

関が原の際はコッソリ西軍寄りになっていたおり、徳川家康の怒りを買って出羽へ国替え。

それ以降は出羽に落ち着き、明治時代には侯爵にまでなりました。

2018年現在の秋田県知事が、佐竹氏の末裔として有名ですね。

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六角氏と京極氏

どちらも宇多源氏の血を引く佐々木氏の一族です。

鎌倉時代に、五代目佐々木信綱の三男・佐々木泰綱が正室腹だったため跡継ぎになりました。

が、他の三人の兄弟がこれに不満を述べたため、鎌倉幕府が仲裁に入り、四兄弟で分割相続・独立。それぞれ大原氏・高島氏・六角氏・京極氏の祖となりました。

この時点で枝分かれしている上に、力も削がれてしまっています。

泰綱が嫡流なのに、なんで名字が「佐々木」じゃないのか?

というと、六角氏としての初代である泰綱が、京都の六角東洞院というところに屋敷をもっていたからです。よくある話ですが、ややこしいですね(´・ω・`)

京極氏は「蛍大名」で有名な京極高次が後に出てくる家です。

なぜ蛍大名かというと、高次の妹が秀吉の側室となり、また、自身の妻が浅井三姉妹・初であり、彼女らのおかげで出世した――という意味でヒソヒソ言われちゃったんですね。名門ゆえに僻まれたと申しましょうか。

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この京極家は、南北朝時代に足利尊氏に重んじられたため、佐々木氏の惣領の座を与えられ、子孫の代になって「四職」の一員ともなりました。

四職とは、室町時代の要職である侍所の長官を務める家柄で、他には赤松氏、一色氏、山名氏がおります。

いずれも嘉吉の乱やら応仁の乱やらで聞いたことのある名前ばかりですね。

対する六角氏は、南北朝時代には後醍醐天皇方だったため、後に尊氏に降ったものの、惣領の面子は失ってしまっています。

それが影響して室町時代にはあまり良いことがなく、国人たちにも背かれて、勢力を拡大することができませんでした。

血筋的には名門。

かつ近江という要所の大名なのに、戦国時代にあまり名前が出ず、織田信長の踏み台みたいな扱いをされてしまうのも、古い因縁のせいだったんですね。

ちなみに、信長に気に入られて出世した蒲生氏郷の近江蒲生氏は、六角氏の客将でした。

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優秀な家臣のほうが生き残る――というのはこの時代のあるある。

まぁ、その蒲生家も江戸時代の初期に断絶してしまっていますが……。

 

北畠氏

村上源氏の系統で、もとは公家です。

源通親の孫・中院雅家から北畠氏を称していて、そのひ孫である四代・北畠親房が後醍醐天皇に信頼され、天皇の薨去後の南朝を主導しました。

親房は『神皇正統記』の著者としても有名ですね。

北畠親房/wikipediaより引用

親房の三男で五代・北畠顕能の頃になると、延元三年=暦応元年(1338年)に初めて伊勢守に叙任され、しばらく南朝方で戦い続けます。

そして北畠教具の代から室町幕府に仕えるようになりました。

教具の「教」は当時の将軍である六代・義教からの偏です。こうしてみると、義教っていろいろなところで出てきますね。

戦国時代を通しては、現在の津市と松阪市の中間あたりに注ぐ雲出川以北には北畠氏の力がほぼ及びませんでした。

ただし、朝廷から正式に任じられた国司の家柄だけあって、南半分地域では勢力が安定しております。

しかし、北畠具教の時期になって織田信長の侵攻が本格化し、婿養子戦略などによって、戦国大名及び伊勢国司家としては滅亡することになります。

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