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【謝名利山】
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薩摩藩に指令「琉球を討て!」
堪忍袋の緒が切れた江戸幕府は、ついに薩摩島津家へ「琉球を討て!」と命令を下します。
関ヶ原での撤退時(島津の退き口)やその頃起きた内紛(庄内の乱)でに多くの勇将たちを失ったとはいえ、島津の兵力にはまだ余裕がありました。
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もともと関ヶ原には、なし崩し的に巻き込まれた感が強く、さほど多くの兵数を動員してもいませんでした。
だからこそ琉球討伐を押し付けられた、とも考えられますが……。
どちらにしろ、立地的に仕方のないことでもありますね。
逆に、薩摩藩にとっては、むしろ戦争をあおって琉球の貿易権益を握ることで、困窮する藩の財政を回復しようとしたとも考えられます。
薩摩藩の琉球侵略はじまる
1609年になり、薩摩藩の琉球侵略が始まりました。
一方の琉球側はというと、軍備なんてほとんどないも同然の状態。
ずっと戦をしていなかったため、その間の技術の進歩も何もかも知らなかったのです。
そのため、攻めてこられたときにはビックリ仰天。わずか数日で首里城は陥落します。
唯一、謝名利山だけが拠点の久米村で抵抗しますが、強烈な島津軍に勝てるはずもなく、結局、降参したといいます。
ただし、気持ちの整理はそう簡単にはつきません。
鹿児島を経由して江戸まで連れてこられた琉球国王・尚寧(しょうねい)は、降伏の起請文へ渋々署名しますが、連署しなければならない重臣のうち、謝名だけは最後まで「イヤだ!!」と言い続けるのです。
彼は大陸の血を濃く引いており、若い頃には明(当時の中国)に留学していたインテリ。
留学から帰国後も明への使者を務めており、優秀さが窺えます。それだけにプライドも高かったことでしょう。
帰国後に、謝名は日本語がうまく親日(親薩摩)だった「三司官」のひとりを告発して百姓の地位に落とし、自分がかわりに三司官の地位につきます。
結局、彼は最後まで主張を曲げず、琉球側でただ一人処刑されることになります。
琉球の正史でも「謝名は外交を誤り国を滅ぼした」と明記され、薩摩でも「邪名」と表記されるなど、散々な扱いです。
が、自分の国に誇りを持っていたという点において、謝名利山は紛れもなく「漢」だったと言えるのではないでしょうか。

那覇市若狭の旭ヶ丘公園にある「鄭迵謝名親方利山顕彰碑」/photo by LordAmeth wikipediaより引用
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
謝名利山/wikipedia