副社長か? それとも専務か?
大企業の出世争いで左右するのが“派閥選び”――とはドラマや小説などでよく描かれますが、この【上役選び】を一つ間違えるとリアルに【死】が待っていたのが戦国時代です。
今回はその中でも不運な流れから主君選びを誤り、「戦国一凄惨な城攻め」とされる苦痛を味わった
に注目してみたいと思います。
この長治、せっかく織田信長と豊臣秀吉に気に入られながら、最終的には【三木城の干し殺し】という籠城戦の末に切腹へ追い込まれます。
どうしてそうなった……。
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東播磨の有力一族に生まれた別所長治
別所長治は弘治5年(1555年)ごろ、赤松氏の家臣筋である別所家に生まれました。
父は別所長勝。
祖父は別所重治。
しかしこの二人は不幸なことに
永禄4年(1561年)長勝
永禄6年(1563年)重治
と立て続けに亡くなってしまい、長治は叔父の別所吉親(よしちか)と別所重棟(しげむね)に養育されることになります。
長治はまだ数え年で7~9歳のころ。まだかなり幼く、同時に「二人の養育者」が出現したことは、別所家にとって災いでした。
御家騒動の火種になるからです。
このころの別所家は、東播磨の地で強大な勢力を有していたと伝わります。
形式的には赤松氏の家臣でしたが、同氏は【嘉吉の乱】などを経て戦国期に没落。
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一方の別所家は【播磨東八郡の守護】と称されるほどの存在であり、すでに守護としては衰え切っていた赤松氏に代わって戦国の覇権争いに加わっておりました。
祖父の代ではあの三好長慶とも激戦を繰り広げるほど。
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最終的には別所家の本拠である三木城を三好軍から守り抜く実力をもっていました。
そのため、別所家は「限りなく戦国大名に近い存在だった」と称されます。
父の死によって若くから家督を継いだ長治は、永禄10年(1567年)に畿内で戦いに明け暮れる三好三人衆を支援しています。
もっとも、年齢的に考えて長治が実権を握っていたとは思えず、「執権」として彼を支えていた叔父二人の主導だと考えてよいでしょう。
将軍からの称賛が後の災いに?
かくして一定の地位を築いてきた長治。
永禄11年(1568年)になると尾張の織田信長が、足利義昭を奉じての上洛を決め、諸勢力に上洛に際しての協力を要請しました。
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周辺の諸勢力は「信長に服従するか否か」の決断を迫られたのですが……。
長治はこれに同意。叔父の別所重棟を派遣して、尼崎の地で迎えを担当させます。
義昭の上洛を阻もうと三好三人衆が襲撃してきた際も、京都に居合わせた重棟が撃退に貢献。将軍から称賛されました。
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「将軍に褒められた!」というのは、別所家の者たちにとって格別のニュースだったでしょう。
ところがこの「将軍の誉め言葉」が後に別所家を二分することに繋がった――と『別所長治記』という史料に示されているのですから驚きです。
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