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【別所長治】
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長治と重棟 二人揃って信長に謁見
「将軍の褒め言葉」の何が悪かったのか?
小説好きや人心の動きに敏感な方ならご想像がつくかもしれません。
お褒めにあずかった別所重棟(しげむね)が、それを鼻にかけ、横柄な態度をとるようになったのです。
そんな彼の態度にキレたのがもう一人の権力者・別所吉親(よしちか)。
後世から見ると『なんちゅーバカバカしいことを……』と思うところで、以後の別所家は重棟派と吉親派に二分され、溝が深まってしまうのです。
元亀元年(1570年)には信長から上洛を要請され、このときは躊躇しています。
理由は家中の争いではありません。備前の浦上氏と抗争が続いていたためで、信長に抵抗する気もなかったでしょう。
その証拠に、天正元年(1573年)には信長のとりなしもあり、浦上氏との和睦がまとまっています。
家中で信長への服従を主導したのは重棟派であったといわれ、別所長治も従いました。
天正3年(1576年)には二人で信長に謁見。
その後も、信長に最も接近していたのは重棟でした。
彼は独自に天正5年(1578年)の雑賀攻めへ従軍し、献身的な姿勢は織田家中でも評価されていたようです。
突然の裏切りを決断
天正5年(1578年)。
織田信長は、対立する足利義昭をかばったとして毛利攻めを決断。
配下の羽柴秀吉に中国攻略を命じました。
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さっそく秀吉が播磨の攻略に乗り出すと、同エリアは別所だけでなく小寺氏や赤松氏といった諸勢力が既に織田家に降っていたこともあり、かなりスムーズに進んでいきました。
一連の播磨攻略において、秀吉が最も信頼していたのが長治だといわれます。
彼らの本拠である三木城は陸上交通の要所でその協力は不可欠であり、なにも秀吉が頼ったのは黒田官兵衛だけじゃなかったんですね。
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ところが、です。
さほどにまで信頼してくれていた秀吉を、長治は突如として裏切るのです。
いったい何が起きたのか?
後世の史料が伝えるところでは、やはり重棟と軋轢を抱えていた吉親の仕業だと指摘されます。
秀吉・信長を非難し、それに長治も同調。
別所家として裏切りを決断したのです。
なぜ長治は信長・秀吉を裏切ったのか?
仰天したのが秀吉と、彼の陣に参加していた長棟でした。
別所家の裏切りは想定外かつ手痛いものだったようで、秀吉は慌てて長棟を説得に走らせます。
しかしその甲斐なく別所家はスタンスを変えず、秀吉は一転して彼らの討伐を決意することになります。
では、いったいなぜ長治は信長・秀吉を裏切ったのか?
古くから多くの説が提唱されており、例えば
・秀吉に提案した作戦が受け入れられず険悪な関係になった
・名門意識の強い別所家は卑しい出自の秀吉に下ることを拒んだ
などの説があります。
しかし、例えば研究者の渡邊大門氏はこれらを「俗説」と一蹴。
別所家は【織田家よりも毛利家を中心とする連合側が有利】と判断し、さらに義昭による熱心な調略に乗って信長を見限ったと指摘します。
確かに、いくら東播磨の覇者とはいえ、畿内の大半を手中に収める信長を相手に単騎で勝負を挑むのは無謀でしかありません。
毛利をはじめとする周辺勢力との示し合わせはあったと考えるべきでしょう。
さらには、
【重棟 vs 吉親】
という権力闘争の結果も影響していたと考えます。
信長に味方して順調に地位を築いていく重棟をこのまま放置すれば、吉親はますます不利になる。
ここは是が非でも、長治には毛利方についてもらい、重棟から権力を奪い返す――吉親にはそんな意図があったのではないでしょうか。
重棟が長治のもとを離れていれば、吉親も甥っ子を言いくるめるのはそう難しいことでもなかったでしょう。
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