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三木城攻略の前に支城を陥落だ
別所長治の裏切りにより、播磨は一転してカオスな戦局となりました。
最も焦ったのは秀吉でしょう。
四方に敵や味方が点在しており、いつ自分が包囲されるかもわからない危険な状況。
結果、尼子氏の残党(山中鹿介など)を支援する余力がなくなり、彼らは毛利方に上月城を陥落させられます。
同時に荒木村重が信長を裏切り、官兵衛が有岡城の牢に囚われ、秀吉の実力が試される展開になっていくのです。
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秀吉はまず三木城の攻略を重視し、攻城戦を仕掛けました。
しかし、少なくとも別所軍が4~5千の兵力を要していたのに対し、秀吉軍は1万未満の兵力だったと推定されます。
攻城戦は攻め込む側が不利であり、一般的に城に籠もる兵の3倍以上の頭数が必要だとされます。
数として上回っていても苦しいのは秀吉でした。
もっとも、信長も彼が苦しい状況に置かれたことは理解していたので、織田信忠率いる応援軍で数々の支城を落としにかかります。
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毛利勢も救援を試みますが、支城の神吉城や志方城が落とされ、有効な支援を講じることはできませんでした。
戦国一「凄惨な城攻め」といわれる三木城の戦い
その後、秀吉がとった戦法は【兵糧攻め】でした。
三木城を徹底して取り囲み、食料をはじめとした物資を城へ届けさせないようにするのです。
一方の長治は、毛利家に依存する形となり、彼らの支援が届くかどうか――この一点が勝敗のカギを握ります。
秀吉は三木城を徹底的に包囲。
長治らもよく持ちこたえます
別所勢はただ単に籠城するだけではなく、ときには秀吉の本陣が置かれた平井山を急襲するなどして、なんとか兵糧を運び入れようと腐心しました。
しかし、陸も海も全てのルートを秀吉に遮断されては、どうすることもできません。
秀吉は本陣の周りにも大量の付城を築き、城内への兵糧運び込みを徹底して阻止しておりました。
もちろん長治も必死に兵糧の運び込みに挑戦しますが、なかなか満足な量を運び入れることは叶わない……。
そうこうしているうちに長治と共に信長を裏切った波多野氏が滅亡。
反信長連合が苦境に立たされると、ついに毛利氏も三木城の実質的な放棄を決め、別所家の勝ち筋は完全に消滅してしまいます。
もはや戦う気力など1ミリも残ってなかったでしょう。
なんせ兵糧の尽きた三木城内の様子は「凄惨」の一言です。
米がなくなると糠や飼葉を食べ、それが尽きると当時はタブー視されていた肉食に走り、最期は泣く泣く仲間を殺してその肉を食ったとまで伝わります。
城内での餓死者は数千人。
動けなくなった兵士が城中に転がっているという有様でした。
ここに至り、支城を次々に落としていった秀吉は、重棟に対して、
・別所長治
・別所吉親
・別所友之(長治の弟)
彼ら3名の切腹と引き換えに、城兵は助命するという降伏勧告を行います。
そして「もはやこれまで」と長治も腹をくくり、約2年におよぶ凄惨な籠城戦は幕を閉じたのです。
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秀吉が称賛した潔い最期
条件通り切腹と決まった三人でしたが、吉親は切腹当日に悪あがきをしたと伝わります。
「オレだけ死ぬのはゴメンだ、お前らもみんな死ね!」と城に火をかけ、城内の兵士ごと自害しようとしたのです。
ところが、です。
それを見かねた城兵に捕らえられ、斬首されたとも伝わります。
長治、友之は妻子を自らの手で殺め、家臣たちに最期の挨拶をして潔く果てました。
当時25歳ほどであったと考えられており、志半ばでの死を余儀なくされたといえましょう。
長治の遺した辞世の句は以下の通り。
「今はただ 恨みもあらず 諸人の いのちにかはる わが身と思えば」
彼の最期は潔いものであったと称賛され、主に秀吉の手によって後世まで語り継がれることになりました。
もっとも、三木城が落ちた後の下りについては、秀吉による戦後処理をスムーズにするための「つくられた美談」であったという指摘もあります。
同時代の書状では「三木城の兵士は皆殺しにされた」とも書かれており、その可能性が高いかもしれません。
一方、残された史料は単なる伝聞に過ぎず、秀吉が戦果を誇張しただけ、という論点もあるようで……。
その実態はいまだナゾに包まれていますが、秀吉がこの勝利で毛利攻略に大きく近づいたことは間違いありません。
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文:とーじん
【参考文献】
峰岸純夫・片桐昭彦編『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち(中央公論新社)』(→amazon)
同著『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
渡邊大門『山陰・山陽の戦国史(ミネルヴァ書房)』(→amazon)