九戸政実

“野面積み”で城郭マニアに知られる九戸城

戦国諸家

秀吉と敵対した最後の武将・九戸政実~6万の大軍相手に5千で粘る

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東北地方最古の石垣

九戸城へ足を運んだときの写真がこちらです。

九戸城・本丸の野面積の石垣

“東北地方最古の石垣”とされていますが、実は「九戸政実の乱」後に秀吉配下の蒲生氏郷が築いたもの。

「この城で、天下の秀吉軍と戦ったのか……」

現地に行って覚えるこの感動が歴史の醍醐味の一つですよね。

九戸政実さんは、もともと南部家の分家筋で、本家に劣らないほどの勢力を持った九戸家のご当主でした。

反乱のキッカケとなったのは南部家の御家騒動です。

南部本家のご当主・南部晴政(『信長の野望』だと統率が高いので比較的使いやすい!)が1581年(天正10年)に病死。

その跡を継いだ子の南部晴継も、わずか13歳で同年に死去してしまいます。

そして始まった後継者争いに、九戸政実さんも参戦するのです。

南部本家の居城「三戸城」跡に建つ模擬天守(三戸城温故館)

後継者候補となったのは、当人ではなく、南部晴政の娘を娶っていた弟の九戸実親でした。

結局、この後継者争いに敗れて、当主は南部信直に決定。

九戸政実さんは南部本家との対立を強めていくと、ついについに挙兵に至ります。

果たしてその運命や如何に?

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九戸政実軍、強し!しかし……

弟が後継者争いに敗れ、天正19年(1591年)に挙兵した九戸政実さん。

これに対して、鎮圧を目論む南部信直。

しかし、九戸政実さんが率いる九戸軍は強い強い! 降伏どころか、南部本家を押し返す勢いでした。

ここでラスボスが登場します。

豊臣秀吉です。

秀吉は、1585年(天正13年)に【惣無事令】を出したとされています。

大名同士の私闘を禁止するもので、簡単に言うと「俺(秀吉)の許可なく戦うな!」ということです。

はじめに出されたのは九州で、これに従わなかった薩摩(鹿児島県)の島津家は征伐を受けて、領地を大幅に減らされました。

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1587年(天正15年)には関東と東北にも出され、これに従わなかった相模(神奈川県)の北条家は滅亡に追い込まれています。

そして、この天下人秀吉ルールで最後のターゲットとなったのが、九戸政実さんでした。

秀吉のルールに従い、その配下となっていた南部信直は、絶頂期を迎えていた秀吉に援軍を依頼。

秀吉はすぐに出陣を決め、総大将に豊臣秀次(関白を継いだ秀吉の甥)を据えて、九戸城に大軍を送り込みました。

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その数、なんと約65,000!

それに対して、九戸政実軍は約5,000……。

誰がどう見ても絶望的な状況――。

にも関わらず、九戸政実さんは善戦を繰り広げ、秀吉軍が九戸城に攻め入ることを阻んだのです。お見事!

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