分厚い雪に覆われた北国の人々にとっては、冬の間できなかった作業を再開する季節でもあります。
戦国時代において、春とは死の季節でもありました。
厳しい冬の間、乏しい食料で飢えを凌いできた民は、春の訪れで気が抜けてしまうのかもしれません。この時期に倒れ、そのまま亡くなる人が多かったことが、残された過去帳からわかるそうです。
民を支配する大名や国衆――冬の間停戦していた武士たちは、雪解けとともに進軍を再開する季節でもあります。
天正11年(1583年)3月6日。
大宝寺義氏(だいほうじ よしうじ)にとっても、春は由利(秋田県由利郡)で陣取る敵を討ち果たす季節となるはずでした。
ところがどういうわけか、彼自身が最期を迎えることとなってしまったのです。
いったい大宝寺義氏の身に、何が起こったのでしょうか。
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あの すぐ滅びる家か at『信長の野望』
大宝寺氏とは、別名を武藤氏ともいい、出羽庄内地方を支配する有力国衆でした。
全盛期は大名をもしのぐほどの勢力を持ち「屋方」号すら許されていました。
当時の庄内は国衆がひしめく激戦区、大宝寺氏は近隣の本庄氏、小野寺氏、そして上杉氏らと連携しつつ庄内を治めていたのです。
永禄11年(1569)、上杉氏の支配下にあった本庄繁長が反乱を起こしました。
大宝寺家当主の義増は、本庄氏に加担。
しかし、当時の上杉氏当主は、かの軍神・上杉謙信公です。
歯が立つわけもなく、義増はすぐさま降伏し、上杉氏の要請により家督を義氏に譲りました。
と、こういう歴史のある国衆なのですが、『信長の野望』シリーズではプレイ開始後即座に滅びる家として認識されているようです。
内政が留守で、ガンガン戦をすることが推奨されたシリーズ『天翔記』では、「申し子」と呼ばれたとか。
ブラック領主のもとで限界を迎える家臣領民
義増の代でも庄内国衆のとりまとめに苦労した大宝寺氏。
跡を継いだのは、血気盛んな十代の義氏です。持ち前の武勇を武器に由利へと北進を開始しました。
しかし、だんたんとその戦いは厳しさを増してゆきました。
大宝寺に従っていた土佐林、砂越、来次氏といった国衆たちは、結局のところ大宝寺が怖いのではなく、背後にいた上杉謙信をおそれていただけなのです。
その頃には、謙信が亡くなっており、後継者争い(御館の乱)や、織田信長との戦いのため、庄内どころではなくなった上杉氏など、恐れる必要はありません。
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重石が軽くなり暴れはじめた国衆をおさえつけるため、義氏は無理な戦を繰り返す羽目になりました。
あまりに戦を繰り返すため、家臣も領民も疲れ果てました。
彼らは
「義氏繁盛、士民陣労」
※義氏が自分のために戦うと、家臣領民は疲れ果ててしまう
とため息をつき、こっそりと「悪屋方(悪屋形)」と呼び、不満を募らせていました。
義氏が無理な北進を繰り返しているころ、出羽の東には勢力を伸ばしつつある大名がいました。
最上義光です。
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酷寒豪雪地帯で合戦なんかしてはいけない!
最上家は、もとは足利一門に連なる名門大名ながら、かつて伊達家に大敗を喫するなどして没落の一途をたどっている最中。
しかし義光の父にあたる最上義守の代において伊達家支配下から独立を果たすと、ヤリ手だった最上義光は、内政の拡充と国衆の取り込みをはかり、東へと領土を拡大しつつあったのです。
ストレートに拳で敵を殴りにいくような義氏に対して、義光は良くいえばスマート、悪く言えば陰湿な策謀で勢力を拡大していきます。
義光の外交手段と策謀は、義氏が知らないところで深く彼の勢力を蝕んでいったのです。
劣勢を巻き返すため、義氏は最上家の東にある伊達家と連携しようとします。
と、これが不発。最上義光の策謀は、陰険であくどいとみなされがちです。
しかし、コソコソしないで陰湿さはゼロ、スポ根漫画レベルの熱血ぶりで敵を殴り続けた大宝寺義氏がどうなったか。
豪雪地帯の出羽は収穫高も低く、冬は行動が思うようにできません。
家臣領民にとっては、冬だろうと構わず合戦をする領主より、合戦をせずに外交と策謀で勢力を伸ばす方がはるかにマシでした。
義氏が無茶苦茶な雪中行軍を敢行したために、兵が苦しむ様子は『タイムスクープハンター』シーズン6の第8回「壮絶!雪山の戦い」で描かれました。
酷寒豪雪地帯で合戦なんかしてはいけない!
それが痛いほどわかる回でした。
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