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【大宝寺義氏】
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囚われた鮭延秀綱は大宝寺家で立派な青年に
大宝寺義氏無念の最期を目撃した人物がいます。
鮭延秀綱です。
最上家の戦国武将・鮭延秀綱~勇猛実直な名将が御家騒動を長引かせてしまう
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彼は晩年、自らの半生を語り残し、それが『鮭延越前守聞書』という史料にまとまっております。
本稿は、この史料を元に義氏の最期をたどってみたいと思います。
大宝寺氏のおさめる庄内の東、現在の山形県最上郡真室川町にあたる場所に鮭延城がありました。
この城を本拠としていたのが、近江佐々木氏の末裔にあたる鮭延氏でした。
永禄6年(1563)頃、この鮭延城が大宝寺義増によって攻められます。
鮭延家当主であった氏孝と、隠居した父の定綱(貞綱表記もあり)は、姻戚関係であった近隣の国衆・小野寺氏の元へと逃げ去ります。
この時、まだわずか満二歳。
生まれたばかりといってもよいほど幼い氏孝の弟は、城下にあずけられていました。定綱父子は急いで逃げ出したため、この赤ん坊は置き去りにされてしまい、大宝寺義増の元へと送られ……いやもとい、さらわれてしまいます。
定綱父子は数年後には鮭延に帰還するのですが、この赤ん坊はそのまま大宝寺家で育てられることになりました。
彼は現在の中学生くらいまで成長してからは、源四郎という仮名(けみょう)を名乗り、小姓となりました。
彼の名が鮭延秀綱。
Wikipedia等では秀綱が最上義光配下になるのが天正9年(1581年)となりますが、ここでは少なくとも天正11年以降であるとします。
物語はにわかに動き始めます。
秀綱の父・定綱と、兄・氏孝は、鮭延に帰還したのち、跡継ぎも残さないまま病死してしまったのです。
鮭延城には、大宝寺家が遣わした城代が入っておりましたが、義氏は立派な青年に成長した秀綱を大宝寺配下の城主として戻すことにします。
この時、秀綱20歳前後。天正9年(1581年)頃であったと思われます。
彼は勇猛さにおいて大宝寺家中でも一目置かれる青年に成長していました。
「源四郎はきっと俺の言うことを聞いてくれるはず」
義氏としては、こんな風に思っていたのかもしれません。
「小姓として仕えていたわけだし、源四郎はきっと俺の言うことを聞いてくれるはず」
赤ん坊の時に誘拐して、実の親兄弟から引き離した張本人の息子がそう思うというのは、一体どういうことだ?
そんな風にツッコミたくなりますが、そこは人の気持ちに鈍い義氏ですから、それも十分にありえたと思います。
秀綱の兄・氏孝は、巧みに政治判断・外交を行い、大宝寺・最上間の緩衝地帯の国衆としてうまく立ち回りました。
天正年間からは最上義光にかなり傾いた行動も見せるようになり、そのため義氏を怒らせたこともありました。
そうなると大宝寺にいた弟・秀綱は危険だと思いますが、それでもバランス外交をしなければいけないところが、いかにも危ういはざまにある国衆の立場です。
しかし秀綱の代となると、義氏のバックアップを受けて城主に復帰。
最上によい顔はできません。
秀綱が心の底から義氏を兄貴分として慕っていたかはよくわかりませんが、それでも義氏への社交は欠かせません。
天正11年(1583)二月半ば、年始の挨拶のため、秀綱は大宝寺氏の本拠地である尾浦城を訪れました。
そして挨拶を終えて帰ろうとすると、義氏が「鮭延なんて何もなくてつまらない所だし、この城で一月二月ゆっくりしていけばよいじゃないか」と提案します。
秀綱はこの誘いに乗り、供回り七~八人と共に城に残ることにしたのでした。冬の出羽は雪が深く、そんな中を戻るのも大変ですからね。
そしてその結果、秀綱はとんでもない事件に巻き込まれます。
前森蔵人、謀叛を決意!
北国待望の春が訪れた三月五日、尾浦城から大宝寺家・家老の前森蔵人率いる軍勢が、由利へと向けて出陣しました。
しかしそこから一里(約4キロ)ほど進んだところで、蔵人はこう宣言します。
「これから引き返して悪屋方を切腹させるぞ。皆ついて来い!」
明智光秀の「敵は本能寺にあり」を思い出しますが、織田信長はたまたま手薄な警備の中、寺で休んでいました。
あまりのガードの薄さに、光秀も魔が差したのかな……と思ってしまいます。
ところがこの場合、本拠地の城からたった一里離れた時点でこう宣言しています。
誰かが反論してもよさそうなものですが、誰も反論しません。
それどころか、
「いいぞ、いいぞ、やれやれ! もっと早くてもよかったくらいだ!」
と盛り上がる始末。義氏、どれだけ人望ないんですか。
日頃から家臣にあたりが厳しく、パワハラ三昧で、皆ストレスがたまりきっていたとのこと。
さらには羽黒山から山伏も援軍に駆けつけていたそうで、義氏が宗教勢力からも嫌われていたことがわかります。
この謀叛は最上義光が糸を引いていたとも言われ、前森蔵人は謀叛を成功させると、最上義光に「さあ今こそ庄内を支配するチャンスです」と持ちかけ、義光はそれに呼応するように東進を開始します。
突発的なものではなく、計画的であることは間違いないでしょう。
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