戦国時代は「他人を巻き込んだ盛大な親子兄弟ゲンカ」が至るところで起きていました。
親子兄弟だけでなく、祖父、孫、おじ、甥なども含めればかなりの数にのぼるでしょう。
その中でも有名どころの一つが【長良川の戦い】。
弘治二年(1556年)4月20日に起きた戦いで
としてよく知られており、大河ドラマ『麒麟がくる』でも大きな注目を浴びました。
前後の事情からおさらいして参りましょう。
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道三vs義龍 長良川の戦いはなぜ起きた?
コトの発端は、斎藤義龍が父を疑いだしたことにあります。
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義龍の母・深芳野 (みよしの)は、道三の主君だった土岐頼芸から譲られた女性でした。
彼女はこのときすでに頼芸の子供として義龍を身ごもっており、道三の元に来た後で生んだ……という話を、誰かが義龍に吹き込んだのです。
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もちろん反対意見もあり、
「いやいや、道三様はもっと早くから深芳野と通じていました。だから義龍様は間違いなく道三様の御子です」
と言う人もいました。
しかし、義龍にとっては前者のほうに信憑性があるように思えたのでしょう。
あるいは、実父など誰でも構わなかったのでは?という見方もあります。
要は、土岐源氏である土岐頼芸の血を引いている設定のほうが、美濃の国衆にはウケがよい――だから、たとえ義龍本人が道三の子だと思っていても、実父は土岐頼芸にしておこうと考えたというのですね。
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大河ドラマ『麒麟がくる』でもこの設定が用いられておりました。
道三に贔屓されていた弟たちを殺して挙兵
道三も道三で、義龍への態度は温かいとはいえませんでした。
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一応家督を譲りはしたのですが、嫡子である義龍よりも次男以下(斎藤孫四郎と斎藤喜平次)を気に入っており、一時は義龍を廃嫡しようという動きもあったとか。
これも「一説には」のレベルなのですけどね。
いずれにせよ自身の立場を危ぶむ義龍は二人の弟を殺すと、いよいよ父との対立は避けられなくなり、長良川の戦いに至ったというわけです。
戦い自体はあっけないものでした。
既に家督は義龍に譲られている上に、かつて道三は美濃をだまし討ち同然で奪っていたので、味方をする国衆(地元の小領主)はほとんどいなかったといわれています。
一方、義龍には土岐家の旧臣たちがつき、開戦の時点で数倍もの兵力差があったとか。
川を挟んでの戦はただでさえ難しいというのに、これほどの兵力差があっては道三が勝つ見込みはゼロでした。
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