長良川の戦い

長良川の戦いで激突した親子(左が斎藤道三)/wikipediaより引用

斎藤家

長良川の戦いで道三と義龍が激突! 親子で分裂した斎藤家はその後どうなった?

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戦後の義龍は頭を丸め内政に勤しんだが

織田信長は、この知らせを聞いて急ぎ兵を出しました。

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が、舅との連携を取る前に義龍軍が道三の本陣に到達。

両軍揉み合う展開の最中に道三は首を討たれ、義龍の勝利となります。

ときに蝮は63。

当時の寿命的にそう長生きできる歳ではなく、義龍は無理して討つ必要はなかったはずです。

それでも力尽くで事を収めようとしたあたり、やはり恨みが大きかったのでしょうか。

ただし義龍も、親を殺したわけですから勝利に浮かれてい様子もなく、父の首を確かめた後、頭を丸めています。

その後は長年の内乱で荒れた美濃の国を立て直すべく、内政に勤しみました。

重臣の意見を容れるため合議制を設け、家臣の不満や不公平さの是正に努めたといわれています。

こういった働きが朝廷にも認められて官位をもらいましたが、長良川の戦いから5年後、35歳の若さで急死してしまいました。

長良川と岐阜城

 


跡を継いだ龍興はどうにもならない凡将だった

本当に突然のことだったらしく、家臣団は右往左往。

跡を継いだ斎藤龍興は何をするにも後手後手にまわるような人でしたので、斎藤家は一気に傾いてしまいます。

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それでも、竹中半兵衛(重治)のようにお家を支えようとしてくれた人もいたのですが…….真偽はさておき、あの稲葉山城乗っ取り事件のようなダイナミック諫言をされても反省せず、信長に滅ぼされることになります。

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龍興自身は長島へ逃げた後、越前の朝倉家へ身を寄せたようで、その朝倉家と織田家との戦いに出陣した際やっぱり討死しました。

美濃を失ったとき20歳、討ち死にしたのが26歳だったそうですから、道三→義龍→龍興の順でどんどん寿命が短くなっていったことになりますね。

「親の因果が子に報う」という言葉がこれほど当てはまる家もそうそうない気がします……。

なお、本文では触れませんでしたが、斎藤道三の救出に向かった織田信長は、その後、義龍の軍に囲まれそうになり、劇的な撤退戦を行っています。

その際、信長は危険を冒して殿(しんがり・最後尾)を務めたといい、以下の記事にまとまっています。

信長が殿(しんがり)を担った長良川! 道三敗死からの撤退戦~信長公記24話

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本当だったら、カッコよすぎるでしょ!


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
戦国合戦史研究会 『戦国合戦大事典 岐阜県 滋賀県 福井県』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
斎藤道三/wikipedia

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