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【斎藤孫四郎】
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義龍に謀殺された孫四郎と喜平次
いずれにせよ自身の立場を守るため、義龍が道三との対立を決意したのは事実。
彼は手始めに、邪魔者でしかなかった斎藤孫四郎・斎藤喜平次という二人の弟を消し去ろうとします。
弘治元年(1555年)、「病気になった」と称して稲葉山城に引きこもり、弟二人を「宴の用意がある」として城の屋敷に招待したのです。
宴も進行して、二人に酒が入った頃を狙ったのでしょう。
義龍は日根野弘就に命じ、二人を殺害させました。
なお、この「孫四郎と喜平次の殺害」については、史料によってその方法がまちまちです。
仮病と称して見舞いに呼び寄せたというものや、宴を理由に二人を招いたというもの。
中には、殺害を実行したのは義龍の寵臣だった日根野弘就とするものだったり、あるいは長井隼人正も共犯であったなど、色々と語られました。
このとき義龍は27才。
孫四郎と喜平次は20歳前後だったと推測されます。
弟2人の殺害を無事済ませた義龍は、あらためて道三への反発をハッキリと表明。
翌弘治2年(1556年)には【長良川の戦い】で父を打倒し、美濃国における地位を盤石なものとします。
長良川の戦いで道三と義龍が激突! その後の斎藤家はどうなった?
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んで、結局、誰の子なん?
なお「義龍は道三の息子か否か」という問題ですが……。
彼の母とされる深芳野の記事で詳しく分析させていただきました。
夫と息子が殺し合い!道三の側室・深芳野は美濃に災いをもたらす美女
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簡単に要点をまとめると
【斎藤義龍は誰の子?】
・成り上がり者でしかない斎藤道三の息子だと、周囲からナメられて不利益なことが多い
・名門土岐氏の出身(土岐頼芸の息子)だという噂がある
・だったら、もうそれに乗っかり、美濃支配者の正当性をアピールしちゃおう♪
というもので、義龍は意外とクールに対応していたのでは?という見方もあります。
まぁ、多感な中学生でもないですしね。
ウソの百や二百、涼しい顔してつけなければ戦国大名とは言えないでしょう。
なお、孫四郎は『信長公記』にも登場しており、実在していたのは間違いなさそうです。
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文:とーじん
【参考文献】
『美濃国諸旧記』
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon)
木下聡『美濃斎藤氏 (論集 戦国大名と国衆)』(→amazon)