織田信長というと苛烈もしくは改革者としてのイメージが強いです。
しかし、意外にも「女性を重視していたのではないか?」という研究者もいます。
妹・お市の方だけでなく、悲運の美女・おつやの方など、彼の周辺には名前がはっきりわかっている女性が多いからです。
他の大名であれば奥さんがいても「誰それの女(と書いて“むすめ”と読む)」としか記録されていないことも多いのですが、信長の場合、側室や養女の名前はもちろん、その出自や嫁ぎ先まできっちり記録されているケースは珍しくありません。
しかし、信長に最も近しかったはずの女性については、ただ一つの例外ともいえる扱いになっており、数々の謎を生んでいたりもします。
美濃から来た姫=濃姫と呼ばれていることの多い帰蝶ですが、その実像は意外なほど謎に包まれています。
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帰蝶(濃姫)と明智家の系図
帰蝶の生まれは一応、1535年頃と伝わっています(正確な生没年不詳)。
信長とは1549年に結婚。
父は美濃のマムシとして恐れらた斎藤道三でした。
大河ドラマ『麒麟がくる』では、明智光秀と“いとこ”の関係だとされまていましたね。
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どういう血の繋がりなのか? と申しますと……光秀の父・明智光綱と、帰蝶の母・小見の方がきょうだいだとされるのです。
ただし、ここら辺の血縁情報は信頼性の低い史料に基づいており、非常にアヤフヤ。
その上でドラマにも関係していた人物の系図を抽出してみますね。
表だと一目瞭然です。
明智光継という祖父を中心に以下のように祖父・親子関係があるんですね。
【祖父】明智光継
│
明智光綱
│
明智光秀(長谷川博己さん)
【祖父】明智光継
│
明智光安(西村まさ彦さん)
│
明智左馬助(明智秀満・間宮祥太朗さん)
【祖父】明智光継
│
小見の方(片岡京子さん)
│
帰蝶(川口春奈さん)
ポイントは、光秀と帰蝶だけでなく、間宮祥太朗さんのキャスティングが発表された明智左馬助(明智秀満)もイトコ設定になっているところでしょうか。
ドラマでは事なかれ主義で何かと口うるさかった叔父の明智光安(西村まさ彦さん)。
光安の息子であり、光秀にとってはイトコとなる左馬助(間宮祥太朗さん)は、側近として終始、明智家を支えておりました。
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ただし、しつこいようですが、あくまでこの系図はドラマに沿ったもので、「そういう推定もあるよ」程度のスタンスでご覧ください。
その上で話を進めて参りましょう。
記録は婚姻のことしか残されていない
当時、女性の本名は明かさないのが普通でした。
そのため「出生地や親の居城」+「殿or姫or方」という呼び名をつけられることは珍しくないのですが、濃姫については、それ以外のことがまるっきり不明なのです。
本名は”帰蝶”だったという話もあり、大河ドラマ『麒麟がくる』でもそう呼ばれておりますね。
道三は信長の父・織田信秀と数年来争っていましたが、同時に今川義元との対決も本格化し追い詰められたことから、美濃との同盟を決断。
平手政秀の働きによって和議が成立し、濃姫との結婚となりました。
こうした事績自体はある程度わかっていますが、彼女自身は謎が謎を呼ぶ女性。
もう少し彼女について考えてみましょう。
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