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【真田信利】
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領内は餓死者も出る有様
が、これをスンナリ飲めなかった真田信利は無茶な行動に出ます。
本家に対抗しようとして、実際の二倍以上の検地高を報告したり、沼田城に五層もの大天守閣を建てたり、江戸での屋敷も松代藩より豪華に改装したり、やりたい放題振る舞ったのです。
しわ寄せが行くのは、当然沼田の領民たちです。
この時期には大飢饉が起きていたわけでもないのに、重税のせいで餓死者が出るという笑えない有様でした。
そして延宝八年(1680年)、沼田藩が江戸の両国橋回収のための木材調達を請け負ったことが導火線に火をつけます。
台風で木材が散逸してしまい、納入期限に間に合わなかったのです。
これをきっかけに領民の怒りが大爆発。
杉木茂左衛門(すぎきもざえもん)という領民が「皆のために」と、幕府への直訴が死罪になることを承知で直訴を行いました。
田中正造みたいな話ですね。
茂左衛門は遠路はるばる江戸までやってきて、直接大老を訪ねます。
しかし案の定追い払われてしまったので、頭を巡らせます。
訴状を日光にある輪王寺(三代家光のお墓があるお寺)の紋が付いた箱に入れ、茶屋に置き忘れたふりをするという奇策を用いたのです。
どこからそんなもん手に入れたのか不思議なところですが、何か別の箱を改造したんですかね。紋だけに……なんでもありません。
「決まりは決まり」で妻子と共に磔刑
茂左衛門が思った通り、茶屋の主人は「これは武家の方のお忘れ物に違いない」と考え、幕府へ箱を届け出ました。
幕府の方では開けてビックリ玉手箱(古い)、さっそく真田信利の処分を考え始めます。
ときの将軍は五代・徳川綱吉。しかも、代替わりしてやる気満々だった頃です。
そして、信利は見事に改易されました。
本人も家族もあっちこっちの藩で預かりの身となり、せっかく豪華にした沼田城も堀も破壊。あーあ。
信利の長男・信音は後に旗本になりましたが、男子に恵まれず、代わりに継いだ一族の人も素行不良で改易されているので、コメントに困りますね。
ちなみに茂左衛門は、「決まりは決まり」として妻子とともに磔刑になってしまいました。
こんなに義侠心があって頭が回る人なら、いっそ幕府で召し抱えるなり褒美をやるなりすればよかったものを、実にもったいない話です。
赦免の使者が着く前に処刑されてしまったともいわれているのですが、どうだったのやら……。
彼のおかげで沼田の領民は助かりました。
そしてその功績は、意外なところで伝えられております。
「て」は「天下の義人 茂左衛門」
群馬県の方なら、すぐにおわかりでしょう。
「上毛かるた」の「て」で彼の名を語り伝えているんですね。
もしかしたらその経緯を知らずに覚えておられる方もいるかもしれませんが、群馬県人にとって「上毛かるた」と言えば子供の頃から誰もが五十音を暗記するほど重要な存在。
茂左衛門の義侠心は、時代を超えて人々の心に伝わっているのです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
真田信利/Wikipedia