1963年11月22日に起きた【ケネディ大統領の暗殺事件】で、何より驚きだったのは、衆人環視の中、白昼堂々と射殺されたことでしょう。
それと同様にショックなことがあります。
ケネディが乗っていたあの車=リンカーン・リムジンが、事件後すぐに廃車とはならず、その後13年にも渡って新大統領のパレードに使われていたというのです。
大量消費でバンバンものを使い、そしてぶっ壊す――アメリカンなイメージからかけ離れた堅実な対処とでも申しましょうか。
不吉で呪われそうやんけ……。
NYデイリーニュースでも驚きながら紹介しておりました(→link)。
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なんで廃車じゃないんだよ!
「なんで廃車じゃないんだよ!」
思わずこんなツッコミを入れてしまった方も少なくないでしょう。
何しろ、記事にはこうあります。
ジョン・F・ケネディ大統領のミッドナイト・ブルーのリンカーン・リムジンは、1963年11月22日(訳注:現地時間)、デイリー・プラザで起きた恐ろしい出来事に永遠に結びつけられるだろう。
50年を経た今、あのリムジンが未だに存在し、事件後も13年間に渡って大統領の自動車パレードに使われたと知れば驚くだろう。
はい、ムチャクチャ驚きました(汗)。
まぁ、悲劇を後世に伝えるため『どこかに飾られているんだろうな』ぐらいには思っていましたけど、まさか実際に使われていたとは……。
むろん今は現役生活を終え、ヘンリー・フォード博物館に飾られております。
場所はミシガンのディアボーンだそうで、博物館キュレーション担当者であるマット・アンダーソン氏は次のように語っております。
「多くの人が、あの車は解体されるか、どこかの倉庫にあり、二度と見る事は無いと思っているようですよね」
しかし実際は違ったのです。
JFK暗殺事件にめげずグレードアップ修理
あの車が製造されたのは1961年のこと。
事件当時は2年目だったのですね。
大統領パレード自体、そんなに多くはやらなかったでしょうから、実質新車みたいなものだったでしょう。
だからって、そんな車を使うなんてあまりに不吉じゃありません???
事件の5ヶ月後、車は全面改装され、今度は弾が貫通しない屋根を付けて現場復帰し、その後の大統領のパレードに13年間も使われました。
「リンカーンは事件の捜査終了後、全面改装されてフォード大統領の時代まで使われていたのです」とはアンダーソン氏。
もっとも続けて使うにあたっては、色々とあったと氏は振り返ります。
「リンドン・ジョンソン大統領(事件を受け、副大統領から昇格)は、車を黒く塗るべきだと主張していました。乗るのを嫌がっていたのだと、私は受け止めています」
事件のあった日、ジョンソンは奥さんと別の車に乗ってパレードに参加していました。
確かに自分が大統領だったら、そのときのトラウマを思い出しそうで嫌ですね。
特にテキサスでは乗りたくないでしょう(ジョンソンはテキサス出身でしたし、尚の事そう思ったでしょう)。
このリンカーン・コンチネンタル、元々はミッドナイト・ブルーに塗られていました。
納車は1961年6月。
シークレット・サービスにはX-100と言うコードネームが付けられました。
鮮やかで優雅な新型のコンチネンタルについて、アンダーソン氏はこう話しております。
「1960年代に於ける美的感覚の大きな変わり目を象徴していました。若々しさが溢れ、活力がある。大統領と車のイメージの両方がピッタリ合った、希に見る例だと思います」
オリジナルを大改造していた
アメリカ大統領が何人も暗殺されているのは、皆様も御存知でしょう。
その為、このリンカーンにも、最初から様々な大改造が施されていました。
オリジナルのリンカーンには装甲が施されていませんでした。
その為、オハイオのシンシナティにあるヘス&エッセンハード社が、車体を切って伸ばし、元よりも3フィート以上長くしています。
同時に特別な革とシート・パディングを車内に敷き、無線電話やシークレット・サービスが非常時に車にしがみつけるようにもしたのだそうです。
シークレット・サービスが車に乗っかり、ジャックリーン夫人を庇おうとしている写真や映像が、大統領暗殺の報道で良く引用されますが、元々そういう事が出来るようにしていたのですね。
ちなみに、後部座席は水圧によって10インチ以上上げる事が出来るようにもしていたとの事です。
当時のリンカーン・コンチネンタルは通常価格で約7300ドル。
そこへ、こうした改造を施したので総額で約20万ドルとなりました。
アンダーソン氏によると、今日の価格にしたら150万ドルになるだろうとしています。
リンカーンには3つのタイプの屋根が作られましたが、歴史好き(陰謀ネタ含む)の間で良く知られているのはプレキシグラス製の屋根。
第二次大戦で飛行機のコックピットなどに使われたガラスです。ダラスで雨が降った時に備えて、一応は用意されていました。
「通常のパレードでは、屋根を使いません。だから、あの日にダラスで使って無くても不思議ではありません」とはアンダーソン氏。
実際、当日は晴れ。屋根は使用されずに現場へ差しかかり、悲劇を迎えてしまったのです。
では、事件後のリンカーンはどのような経路をたどったのか。
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