渋沢市郎右衛門

幕末・維新

渋沢市郎右衛門元助(渋沢栄一の父)は息子をどうやって経済人に育て上げたのか

大河『青天を衝け』の序盤で、主役よりも存在感を発揮していたのがその父。

明治4年(1872年)11月22日に亡くなった渋沢栄一の父・渋沢市郎右衛門元助(しぶさわいちろうえもん もとすけ)です。

小林薫さんの渋い演技と相まって、ただのお百姓さんではない雰囲気を醸し出していましたが、それもそのはず。

この市郎右衛門も、幼い頃より才覚を認められ、傾きかけていた渋沢宗家を復興させた人物だったのです。

栄一が子供のころから教養に触れられ、その後、世の中へ羽ばたいていけたのも、すべては市郎右衛門の稼ぎや教育論がしっかりしていた影響でしょう。

いわば二代でコトを成就したとも言えそうな渋沢親子の才覚。

いったい父の渋沢市郎右衛門元助はどんな人物だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

※以降、ドラマの表記に併せて「市郎右衛門」に統一

 


渋沢市郎右衛門元助 分家に生まれ宗家へ

渋沢市郎右衛門元助は文化6年(1809年)ごろ、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)で生まれました。

父の渋沢宗助(栄一にとっては祖父)は、渋沢家の中でも分家筋(東の家)の生まれ。

なので市郎右衛門も「分家の生まれ」ということになります。

では、渋沢家とはそもそもどんな家だったか?

というと、故郷である血洗島村が、村として成立した頃から存在する古い家とされます。

当初はあくまで一農民だったと考えられますが、分家を繰り返して発展。

市郎右衛門が生まれたころには、村に渋沢姓が十数軒も存在するまでになるのです。

しかし、市郎右衛門が生まれたころの渋沢一族は、とある問題を抱えていました。

一族の大黒柱ともいうべき「中の家」、言い換えれば「渋沢宗家」が衰退してしまっていたのです。

経済的にも傾いており、このままでは家の存続が危ぶまれる――そこで救世主となったのが市郎右衛門や栄一が継ぐことになる「東の家」でした。

彼らは衰退する宗家を尻目に村イチバンの大富豪へ成長し「大渋沢」と呼ばれるほどに。

そこで、両家は

「東の家の三男・市郎右衛門を宗家の跡取りにつけ、家を再生してもらおう」

と結託し、宗家の娘・えいを嫁がせ、家の再興を図りました。

その際「市郎右衛門」という宗家の名前に改め、同時に「美雅」「晩香」という名も使用し始めました。

 


藍産業で家を復興させ事業を拡大

宗家の跡取りに定められた市郎右衛門。

彼は当時「武士になりたい」と考えていたようであり、農民には必要のない武芸・学問をよく習得し、その時に備えていました。

しかし、いざ婿養子になることが決まると、息子の栄一曰く「サラリ」と武士への憧れを捨て、中の家再生に全精力を傾けたといいます。

市郎右衛門は「中の家復活プロジェクト」と言わんばかりに家業の麦作や養蚕だけでなく、当時、特産品として染め物に重宝されていた「藍」の製造・販売に乗り出しました。

大河ドラマ『青天を衝け』でも、序盤からクローズアップされていましたね。

彼らは藍を自家生産するだけでなく、同時に他家からも買い付け、藍玉に加工して染め物屋に卸しました。

藍玉/wikipediaより引用

今でいえば「専門商社」のような形で藍産業に注力した市郎右衛門のアイデアは大当たり!

販路は徐々に広がり、同時に稼ぎを生かして荒物屋(日用雑貨店のようなイメージ)の経営も始めました。

さらには金融業にも手を出すなど、事業規模はどんどん拡大していきます。

なんていうと市郎右衛門は「カネのことばかり考えている商売人」と思われがちですが、むしろ「藍玉の品質や売り方の改良自体を喜び、その進歩を楽しみにする人」だったと栄一が指摘しています。

彼の売る藍は非常に評判がよく、染め物屋にも重宝されていました。

こうした市郎右衛門の姿勢が栄一の才覚や性格に多大な影響を与えたのでしょう。

藍産業に成功した結果、中の家は彼の生家である東の家に次ぐ村内第二位の富豪へと躍進。

藩主の安部家にもその功績を認められ、百姓ながら名字・帯刀(武士と同格であることを表す)を許されました。

同時に名主見習役(村長のようなもの)にも命じられ、豪農としての地位を確立したのです。

 


息子に四書を教えるインテリ派

中の家を復興に導いた市郎右衛門。

後に「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一の父となったのは天保11年(1840年)のことです。

勉学に長けていた父は、栄一がまた6~7歳のころから漢文の読み方を教えました。

栄一は、儒教の教科書である『四書』に親しみながら育ち、四書のうち『大学』『中庸』『論語』の第二巻までを父から学んだといいます。

彼自身が父のことを

「まじめで厳しい性格に似ず、人に対しては最も思いやりの徳に富んでいて、人の世話はとても親切であった」

と評しており、市郎右衛門は教育者としても一流の人物であったのかもしれません。

しかし、市郎右衛門はある日、栄一にこう告げます。

「読書の修行はオレが教えるよりも、手計村の尾高に習ったほうがいい」

尾高とは、尾高惇忠のことで栄一の従兄。

尾高惇忠/wikipediaより引用

大河ドラマ『青天を衝け』では田辺誠一さんが演じられており、二人が学問に没頭する姿は既に映像化されてますね。

一方、史実の市郎右衛門は、ここで漢学教育者としての役目を終えたことになります。

「息子のためになる教育者に役目を潔く譲る」という姿勢に、器の大きさを感じさせますよね。

特にアッサリと身を引くというのは簡単にできることではありません。

後の渋沢栄一の偉業も、こうした市郎右衛門の行動や資質を受け継いだからでありましょう。

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