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【島津貴久】
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更にそのタイミングで、朝廷から「貴久を薩摩守護と認める」という勅使が来て、当主として最強のお墨付きをゲットしました。
本拠として内城(うちじょう)を築き、さらに朝廷から正式に島津家代々の官職「修理大夫」に任じられています。
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信長が家督を継いだ翌年に……
こうして貴久が名目的にも物理的にも薩摩の主となったのは、38歳のときのこと。
長く苦しい戦いでした。
年でいえば天文二十一年(1552年)。
織田信長が家督を継いだ翌年であり、大友宗麟が中国の大内家に養子を送り込んだばかりで、南に目が向いていなかった頃ですね。
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信長の父・織田信秀と貴久がだいたい同世代ですから、息子たち四兄弟と信長も当然ながら同世代。
本能寺の変が起きていなかったら、九州征伐をしたのは豊臣秀吉ではなく、信長の陣頭指揮となる可能性が高そうなので、
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という胸アツな展開になったかもしれません。
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それに、もしこれ以上薩摩統一が遅れていたら、島津家が勢力を保つことはできなかったかもしれません。
実に絶妙なタイミングです。
戦国大名として初めて実戦に鉄砲を投入した
その後、貴久は大隅(現・鹿児島県東部)の西部を攻略し、島津家の掌握と領地の拡大に成功しました。
ちなみに貴久は、大隅攻略の過程で、戦国大名として初めて鉄砲を実戦で使ったといわれています。
種子島から近い分、研究や生産も早くできたのですね。
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貴久の最終目標は、大隅全土及び日向(現・宮崎県)を手中に収めることで、それは彼の息子である島津義久たち四兄弟によって進められていきます。
四兄弟の時代から見ると、忠良と貴久は二人で義久たちの地盤作りをしたことになるため、二人とも「中興の祖」といわれていますね。
父に倣ってか、貴久も寿命が尽きる前に出家し、長男の義久に家督を譲りました。
義久の初陣は大隅攻略の後半ですので、たぶん前々から計画を立てていたんでしょう。
この流れからすると、島津家だけで大長編ドラマができそうな気がします。「葵徳川三代」みたいに代々記っぽく進んでいく感じで。
特に島津家の場合、次の世代へのバトンタッチが見事ですから、うまく繋げていけそうです。
島津四兄弟(特に義弘)が大河にならないのは、「朝鮮出兵でのアレコレが問題になるおそれがある」という説が根強いと感じますが、忠良や貴久の代からやれば、朝鮮出兵のあたりはかっ飛ばせませんかね。
そんな感じでいかがでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
島津貴久/Wikipedia