武田信虎

武田信虎/wikipediaより引用

武田・上杉家

武田信虎(信玄の父)は暴君に非ず! 武田家飛躍の土台を築いた悲哀の生涯

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当時の信虎は44とも48とも。晴信は21でした。

板垣信方が「好機である」と持ちかけ、甘利虎泰、飯富虎昌らを説得してのクーデターであります。

ただし、甘利虎泰は乗り気ではありませんでした。

いくらなんでも主君追放とはどうなのか……そんな迷いがあったわけですが、一方でそうせざるを得ない国内状況であったとも言えます。

実は、このクーデター当時、甲斐では軍事面以外での大激変が起こっていました。

 

信虎追放は民衆や国衆からの支持もあった?

天文9年(1540年)、甲斐と信濃は大災害に見舞われておりました。

不作、大雨、巨大台風――そんな大災害が頻発していたのですが、その最中も合戦を続ける信虎に家臣や領民が凄まじい怨恨を抱いていたと思われます。

殿様を入れ替えても天災は治まらない。

そう言われたところで、彼らの感情が納得しなければ意味のないこと。当時の民衆は、決して虐げられるだけの弱い存在でもありませんでした。

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要は、下々からの根強い支持(要求)があって、信玄への代替わりが行われた可能性があるのですね。

当時は、代替わりに伴う徳政令(借金チャラ)も珍しくはなく、例えば武田信玄と関わりの深い北条氏康においても同様の現象が見られます。

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そして信虎が本当に極悪非道ならば、野垂れ死をしていてもおかしくないところですが、実際はそんなことありませんでした。

今川氏、そして我が子・信玄の援助を受け、それなりに安定した生活を送っております。

駿河今川家には「駿河武田衆」が所領を持っていた形跡も……。

 

孫の勝頼と対面叶うが甲府へは戻れず

余生はほぼ京都暮らしで、足利義輝足利義昭に出仕し、公家と交流していました。

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娘の一人は菊亭晴季に嫁がせており、婚約が決まっただけで婿殿の顔を見ると押しかけたこともあります。

これはあまりに気が早く厚かましい振る舞いとして、京雀たちが狂歌を詠んで笑えるゴシップネタとして楽しんだほど。

こんな無作法さが話題になった信虎ではありますが、教養がないわけではありません。文人として和歌を詠み、堂々たる技量を披露しております。

いわば、武田氏の外交官としての役割を担っていたのです。

こうした様子から窺えるのは、暴君どころか、むしろ洗練されていてスマートな姿。

義昭が信長包囲網を画策すると、信虎も武田氏の窓口として参加しております。

天正元年(1573年)には、近江国甲賀に潜入した形跡も確認できるのです。

そんな信虎が京都から脱出したのは、織田信長が義昭への反攻へと転じた際に、身の危険を感じてのことでした。

そして天正2年(1574年)、高遠城で信虎は嫡孫・勝頼との対面を果たします。

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信玄との間に和解は成立していたとはいえ、それはあくまで表向きのこと。信虎は己を追放した家臣に怒りをぶつけたため勝頼としても困り果てました。

勝頼が、そんな祖父の激怒を警戒したためか。

信虎は自らが築いた甲府へ戻ることはできませんでした。勝頼との対面からほどなくして、没したのです。

享年は81とも、77ともされています。信玄よりも長く、当時としてはかなりの長寿でした。

お墓は、大泉寺にあります。

 

なぜ信虎は暗君とされたか? その背景にあるもの

ここまで辿り、どんな印象をもたれるでしょう?

信虎といえば我が子(信玄)をいじめ、逆に追放される暴君・毒親だと思えていたのに、そうではなかった。

他ならぬ地元の甲府が再評価し、映画化する流れも理解できるというものです。

信虎は名君だった。

と、そこで終わらせてもよいところですが、どうしたって考えたいところはあります。

一体あの暴君像は何だったのか?

その像には、後世の人間も悩んだからこそ、無茶苦茶な理由が捏造された形跡がみてとれます。

◆妊婦を殺す、好色、文化財破壊等は何だったんだ?

面白半分で妊婦を殺すという暴君伝説は、ありがちなものです。

戦国時代だけでも豊臣秀次から大宝寺義氏までテンプレとなった感もあり、元ネタを辿れば殷の紂王あたりに到達する話です。

武田信虎についても同様のシーンがフィクションで用いられますが、「テンプレだよね」でそろそろ終了としたいですね。

家臣を手討ちにするエピソードも、暴君のテンプレです。

※紂王とは『封神演義』にも登場する暴君です

◆晴信をいじめ、弟を寵愛した

これもテンプレという印象ですね。

織田信長にせよ、伊達政宗にせよ、似たような話がありました。

こうした逸話から考察できるのは【当時から不可解なクーデターであった】という事情です。

甲府から地理的には離れているものの、私はある人物の話と似ていると感じました。

大宝寺義氏です。

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大宝寺義氏の場合、なまじ知名度が低いだけに軍記やフィクションでの潤色が武田信虎ほどではありません。

しかも、鮭延秀綱の聞き取りが残されているため、生々しい戦国武士の事情がわかりやすい。

秀綱は淡々と、義氏がどれだけ家臣から憎まれていたか、かつその理由が後世からするとシンプルなものであるか、語り残しているのです。

リアルな戦国武士の心情を踏まえつつ、両者を比較してみましょう。

◆戦乱を繰り返した

領土確立のためとはいえ、激しい戦乱を繰り返しており、税の負担は大きなものとなりました。そこへの不満はあったことでしょう。

武田信虎、信玄、勝頼、実は三代にわたり、この傾向はあるのです。

それでも信玄だけが名君とされるのであれば、そこにはバイアスがあります。

◆インフラ整備に努力した

大宝寺義氏は、現在に至るまで残る地名「庄内」を築き上げようと努力しました。

信虎の場合は前述の甲府整備です。

偉業ではありますがこれまた負担は大きいもの。恨みと紙一重なのです。

◆農業生産性の問題

大宝寺領は荒れ果てており、生産性が極めて低い土地でした。

甲斐も前述の通り、痩せていてかつ火山噴火や地震が多い大変な場所です。そういう貧しい土地で戦乱をされると、負担が大きくなります。

◆後任者が民の生活を楽にした

大宝寺義氏の後、庄内を治めた最上義光は内政手腕に長けており、経済利益と農業生産性向上をもたらしました。

信虎の後の信玄は、他国に侵攻しながら経済効果も発揮する手腕を発揮し、民の暮らしを豊かにしたのです。

こうなりますと、後世の人間は因果関係を逆転します。

「豊かなあの殿様を迎えるために、悪逆の殿様を追い払ったのである!」

新たな殿様を迎えた時点では、人々がどうなるか予測できたはずもありません。それでも、バイアスはかかるのです。

信虎の人生と評価は、実に興味深いものがあります。

古今東西、実のところ全盛期を築いた名君が、素晴らしい人物であるとは言えません。

ブルボン朝のルイ14世。

清の乾隆帝。

ただ時代が良かっただけではないだろうか? そう思える人物はいるのです。

その前後の君主が割りを食った評価になることも、これもよくあること。武田三代が評価される結果、信玄の評価は相対的に下がるような気もします。

けれども、これぞ歴史を学ぶ醍醐味であるとは思えませんか。

人が時代を作るのか?

時代が人を作るのか?

そう考えてこそ、歴史から学ぶということであるはずです。

信虎の活躍が描かれた書物を読み解き、これから日の目を見るときを期待して待ちましょう。

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文:小檜山青

【参考文献】
『武田信虎 (中世武士選書42)』(→amazon
『信虎・信玄・勝頼 武田三代』(→amazon
『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon
国史大辞典

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