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【上杉景勝】
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秀吉と手を組み急成長 91万石へ
それでも信長の死後、事態は目まぐるしく推移します。
織田家の重臣たちは骨肉の後継者争いで加熱し、周辺の諸大名もいずれの味方に付くべきか判断せねばなりません。
簡単に、織田家中を確認しておきますと。
信長の次男・織田信雄と、三男・織田信孝が対立し、それぞれの支持者として羽柴秀吉と柴田勝家が争いました。
景勝は、いち早く秀吉との同盟関係を築き、秀吉・勝家の間で勃発した【賤ケ岳の戦い】では勝者サイドに滑り込みます。
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しかし、状況は良好とは言えませんでした。
徳川や北条の勢力が、絶えず迫り寄っていたのです。
一方、同盟を結んだ秀吉からは援軍の要請が届きますが、万が一、自国を攻められてはそれも無視するしかありません。
と、その態度に秀吉が「誓約違反だ!」とブチ切れ。
一時は同盟の白紙撤回を通告されますが、四面楚歌の景勝にとって秀吉との同盟は欠かせないものであり、失態を詫びながらどうにか同盟継続にこぎつけます。
天正12年(1584年)3月から始まった【小牧・長久手の戦い】でも、当然ながら秀吉サイドにつき佐々成政と敵対しました。
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小牧・長久手の戦いは、羽柴vs徳川の当事者のみならず全国の諸勢力も参加し、戦いは長きに渡りました。
そして同年11月、ついに家康が秀吉への服従を表明。
勢いづいた景勝は、秀吉から新発田征伐の協力を取り付け、天正15年(1587年)にようやく新発田氏を滅ぼし、越後の統一を成し遂げたのでした。
天正6年(1578年)3月に謙信が亡くなってから約9年が経過しており、景勝はようやく一息つくことができたのです。
景勝は、天正16年(1587年)に上洛、秀吉と面会し、羽柴姓や在京料の一万石、従三位の地位などを手にします。
豊臣家臣の有力大名として位置づけられ、後に「五大老」の一角にまでなりました。
秀吉にとっても上杉は大きな存在でした。
軍神・謙信公という名門の威光。
それに加えて、実入りも凄まじく、平定した佐渡から兼続を代官として大量の金が秀吉政権に運び込まれています。
秀吉の“黄金好き”を支えていたのは、佐渡の金といっても過言ではないでしょう。
一方、関東で幾度も争いを続けてきた北条氏は、名胡桃城事件をキッカケとする小田原征伐に遭い、滅亡に追い込まれました。
このとき景勝は、北条征伐軍の一員として配下の城を攻略する戦果を挙げ、秀吉の大勝に貢献しています。
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北条攻めを通じて伊達政宗も降伏し、秀吉の天下統一事業は完遂されました。
すると今度は、諸勢力の配置見直しが始まります。
北条氏の遺領である関東へ徳川が鞍替えし、景勝は出羽・庄内の三郡を手にしました。
結果、上杉家は91万石の領地を有する最大規模の大名に成長したのです。
家康の上杉征伐から関ヶ原へ
親秀吉派の大名として石高を増やしていった上杉景勝。
その後も太閤検地や普請工事などに協力し、朝鮮出兵にも付き従いました。
慶長3年(1598年)には会津への移封が決まり、120万石に上る莫大な領土を手にします。
実は会津は、東北の玄関とも言える重要なエリアです。
歴史上の会津は、幕末における会津戦争のイメージが強いかもしれませんが、伊達政宗も執拗にこだわった土地であり、上杉が秀吉からいかに信用されていたかがわかります。
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それだけに慶長3年(1598年)8月18日の秀吉逝去は上杉にとっても痛手でした。
ご存知、関ヶ原の戦いまでは2年ほどの期間があります。
その間に各大名と姻戚関係を結んだりして、豊臣政権の五奉行・五大老へプレッシャーをかけていった徳川家康。
当然ながら、その筆頭である上杉家にも家康の触手は伸びてきます。
そして家康のもとに「景勝、叛乱の兆候あり」という知らせが舞い込みます。
家康は「大坂に上って私に弁明せよ!」と景勝に圧力をかけますが、上杉にしてみれば、亡き太閤の約束事を破り、豊臣政権を私有化しているのは徳川のほう。
家康の言葉を無視し、領国の整備に専心します。
それでも一向に引く気配はなく、「お前ら、国内の軍備を整えて戦争するつもりか?」と圧力を強めてくる家康。
いい加減、その態度にキレた上杉は、あの有名な【直江状】を送りつけるのです。
かなりザックリ、現代風に描くとこんな感じでしょうか。
「領民のために内政しているだけっすw 謀反なんてあるわけないでしょwww 無礼は許してね♪」
直江状は写本しか現存しておりませんが、おおむね家康を激怒せる内容だったということは間違いなさそうです。
それが慶長5年(1600年)4月14日のこと。
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ブチ切れた家康は同年6月、会津へ向けて進軍。
俗に【上杉征伐】とか【会津征伐】と呼ばれる軍事行動を起こし、一方、上杉景勝も会津領の防衛を基本戦略として合戦に臨みました。
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戦いは、意外なカタチへ展開します。
家康が出陣した隙を見計らって石田三成らが挙兵すると、徳川軍も踵を返して上方へ向かったのです。
ご存知、関ヶ原の戦いですね。
ここでふと疑問に思いませんか?
なぜ上杉景勝は、徳川軍を追撃しなかったのか。
他ならぬ直江兼続も、徳川を挟み撃ちにする戦略を提言していますが、不可解なことに景勝は動きませんでした。
真意は不明ながら、おそらくは動くに動けなかったと見るべきでしょう。
周囲には伊達や最上といった家康派の勢力が多く、それを野放しにして徳川を追えば、本拠地を落とされる危険性もありました。
そして実際に始まったのが【慶長出羽合戦】です。
最上と伊達が組めば、さすがの上杉も負けるのでは?
そんな風に思われるかもしれませんが、軍事の兵数は基本、石高に左右されます。
単純に石高を比べると
上杉120万石
vs
最上24万石
伊達58万石
と、上杉が圧倒的です。
実際、上杉軍は猛スピードで最上家の城を落としており、あとは長谷堂城を攻め落とせば最上の本拠地・山形城は目の前!
そんな絶好のタイミングで、景勝にとっては絶望的な知らせが届きます。
関ヶ原で三成敗戦――。
こうなっては長谷堂城を攻める理由はなく、今度は逆に命からがらの撤退戦を強いられました。
最終的には戦を中断して家康に下ることを決め、使者として重臣の本庄繁長を派遣します。
景勝も、まさか半日で関ヶ原の大戦が終わるとは思わなかったのでしょう。
領地4分の1に削減も家名は繋ぐ
上杉家の存続は、風前の灯にありました。
西軍に味方した、あるいは事態を静観した大名は、毛利家や長宗我部家を筆頭に領地の大幅な削減や改易処分を喰らっており、上杉家の影響力を考えれば寛大な処分は望めません。
改易だった十分にありえます。
結果、彼らは大名家としての存続は許されました。
ただし、領土は4分の1である30万石へ減封し、本拠地も米沢へ移動。
なぜ許されたのか?その理由は
などが挙げられます。
この屈辱的な処分を聞かされた景勝は、兼続に対し「武名の哀運今においては驚くべきに非ず」と語ったと伝わります。
領地が4分の1になったということは、上杉家の規模をすべて4分の1にしなければなりません。現代の会社であれば、当然リストラの嵐が敢行されるでしょう。
しかし。
景勝と兼続は積極的なリストラを行使せず、望む者はすべて雇用を続けました。
むろん給料は大幅に減らされ、住む家が足りなくなった家臣たちは、何世帯も同居する有様となりますが、それでも景勝らに付き従ったのです。
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美談ではあります。
ただし現実は厳しく、米沢藩は恒常的な財政難に苛まされることになり、直江兼続を中心にとにかく収入増に務めるほかありません。
もちろん徳川への忠誠も他家以上に求められます。
14年後の大坂の陣では、徳川方の最前線で働き、戦後に徳川秀忠から激賞される活躍を見せました。
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そして太平の世が始まりつつあった元和5年(1619年)。
直江兼続が60歳でこの世を去ると、景勝もその後を追うようにして、元和9年(1623年)3月20日、その生涯に幕を閉じるのでした。享年69。
「寡黙で厳粛な将」上杉景勝の評価は?
上杉景勝という男の性格は、寡黙で厳正なものであったとされます。
ほとんど言葉を発さず、感情も読み取れない人物であり、一方で上杉家を守るためとあらば、たとえ家臣でも身内でも容赦はなかったと伝わります。
しかし、景勝の生涯を評価するのは極めて難しいと言わざるを得ません。
なぜなら彼の成し遂げたことは「否定的にも、肯定的にも評価できる」性質のものが多いからです。
例えば、御館の乱を引き起こして家中を分裂させ、上杉家を滅亡寸前まで導いたのは事実。
しかし、御館の乱を通じて家中の反乱分子を一掃し、より近代的な中央集権体制を構築したのもまた事実でしょう。
会津征伐に関しても同様です。
誰よりも早く秀吉と結び、会津120万石の地位を手に入れたのも景勝ですし、情勢を読み違えてその領地を30万石に減らしてしまったのもまた景勝でした。
正直に言って、私は景勝が優秀であったかどうかを判断できません。
ただ、一つだけ言えることは、上杉謙信という偉大な義父の跡を継ぎ、分裂する家をまとめ上げ、まかりなりにも家名を後世を残したのも景勝です。
上杉家といえば、すなわち謙信ですが、もう少し景勝も注目されてよいのではないでしょうか。
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文:とーじん
【参考文献】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
乃至政彦/伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』(→amazon)
三池純正『守りの名将・上杉景勝の戦歴』(→amazon)
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