武田勝頼の肖像画/父・武田信玄の跡を継いで戦国の荒波を生き、最後は悲運の滅亡に追い込まれた武田家最後の当主

武田勝頼/wikipediaより引用

武田・上杉家

武田勝頼の生涯|信玄を父に持つ悲運の後継者 侮れないその事績とは?

2025/03/10

歴史とは既に終わったものであり、評価はそうそう変わらない――。

なんて思われがちですが、実際は日々の研究により、ときに大きな変貌を遂げます。

戦国武将の中で、その代表格が天正10年(1582年)3月11日に亡くなった武田勝頼でしょう。

2025年11月5日放送のNHK『歴史探偵』でも大きく取り上げられたように、かつては偉大なる父・武田信玄の跡を継げなかった“暗君”と見なされてきました。

しかし2000年代以降、急速に研究が進んで別の像が語られるようになっており、その大きな成果のひとつが2016年大河ドラマ『真田丸』ですね。

ドラマでは第一回で散ってしまうにもかかわらず、高潔で聡明さをにじませた姿は、視聴者に鮮烈な印象を与えました。

いったい再評価される武田勝頼とはどんな人物だったのか?

武田勝頼/wikipediaより引用

本稿では、父・信玄とは違った真の魅力に迫ってみましょう。

※本稿の「信玄」表記は時期に関わらず同名で統一します(以下はその生涯を綴った関連記事となります)

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

諏訪氏の母を持つ武田勝頼

武田勝頼の生年は、天文15年(1546年)。

同年生まれには黒田官兵衛孝高や最上義光がおり、ほぼ同期となるのが真田昌幸(1歳下)や、徳川家康(4歳上)あたりまで含められましょうか。

この世代の武将たちは1600年「関ヶ原の戦い」において、人生経験と体力をフルに発揮できた時期に当たります。

そう考えると、勝頼の生涯がいかに短かったか……。

父・武田信玄にとって勝頼は四男でした。

母は正室・三条夫人ではなく、諏訪氏(法名・乾福寺殿)の娘。本稿では法名表記の「乾福寺殿」とします。

フィクションで有名になった「湖衣姫」や「由布姫」はいずれも創作の産物であり、実名は不明です。

確かに地元の行事等ではこうした名前が用いられたりしますが、史実ではありません。

ではなぜ、フィクションで彼女が取り上げられやすいのか?

というと、その生涯が劇的であったからでしょう。

武田信玄は、妹・彌々(ねね)を諏訪頼重に嫁がせていたにも関わらず、諏訪家に攻め込み、頼重を切腹に追いやりました。

諏訪氏にとってはあまりに予想外のことでありました。

ほんの少し前に同家では、寅王丸のお宮参りを行なっていたばかり。武田の侵攻に対して、備えは無きに等しいものだったのです。

こう書いていきますと、信玄があまりに非道に思えるかもしれませんが、おぼろげなから動機は見えてきます。

父の武田信虎を追放してからというもの、武田家では新体制構築のため信玄は忙殺されていました。

武田信虎/wikipediaより引用

その間、関東から海野氏が、信濃・佐久郡へ侵攻の機を狙っておりました。

海野氏とは、武田信虎らに敗北し、関東へ逃れた国衆です。

真田信繁(幸村)や真田信之の祖父となる真田幸綱も、この一族に属しており、当時の彼らは関東管領・上杉氏の支援を受けていました。

彼らの侵攻を受けた諏訪氏側では、海野・上杉と領土分割を含めた和平交渉を行なったのですが、これが信玄にとっては裏切りにも等しい行為となります。

「こちら(武田)が忙しいからって、勝手に敵と手を結ぶとはどういうことだ!」

そう叱られても仕方のない内容だったのです。

ゆえに信玄に攻め込まれると呆気ない敗北を喫し、さらには直後の悲劇をもたらします。

信玄の甥にあたり、諏訪家の跡継ぎ候補だった寅王丸は出家させられました。

これによって寅王丸の母であり、信玄の妹でもある彌々が、どれだけ苦しんだことか。

夫・頼重が死へ追い込まれ、我が子の出家の原因となったのは、実の兄なのです。あまりに心労が大きかったのか、彼女も夫を追うようにして、16年の短い生涯を終えます。

そんな頼重の遺女であったのが、乾福寺殿。

「かくれなきびじん」と『甲陽軍鑑』に記されたその美貌が信玄の目に留まったとされます。

一族の仇である、憎き敵の目にとまる美貌の姫君――なんとも劇的ではありませんか。

絵・小久ヒロ

フィクションではここで『甲陽軍鑑』の記述を基にして「山本勘助が輿入れの準備を進めた」と、ドラマチックな盛り上げ方がなされるわけです。

あまりに酷い顛末を和らげる効果も狙っているのでしょう。これは創作と考えられます。

ただし、敵の姫を側室とする信玄の決定を危険視する反対意見は当時から武田家内にありました。

信玄は本当に、美貌に惹かれて乾福寺殿を側室にしたのでしょうか?

そうではないでしょう。

諏訪氏を取り込むためにはその血を引く側室を迎え、子を産ませて跡を継がせれば有利になるのは確かなこと。それを踏まえてのことなら筋が通ります。

特にこれは、大名と国衆の微妙な関係を考えると腑に落ちるはずです。

こうした政治的動機は、背景の説明がややこしく、フィクションではむしろ邪魔になりがちです。

そんなことよりも乾福寺殿を運命の姫君として、三条夫人がそんな彼女に嫉妬した――という筋書きの方がたやすく盛り上がるもので、ストーリーとして採用されやすい。後世の思惑からの逆算ですね。

問題は、なぜ側室の母である四男を後継者にしたのか?ということでしょう。

話は簡単で、信玄の息子たちは以下のように

嫡男・義信の死

二男・海野信親の視覚障害

三男・信之の夭折

次々と跡継ぎ候補から外れてしまい、やむを得ず勝頼が継ぐという展開になったのです。

 


高遠諏訪頼嗣の後継者

信玄が乾福寺殿を側室にした理由は、政治的な思惑が濃厚です。

彼女との間に生まれた男児を、諏訪氏の惣家後継者にすることを信玄は考えていた。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

となると、諏訪頼重の遺児である寅王丸はその地位を失ってしまい、実際、彼は出家後に信玄殺害を試みて、逆に誅殺されたと伝わっています。

一方、諏訪家を継ぐ予定となった武田勝頼は、17歳で伊那郡高遠城に在城を命じられ、高遠諏訪頼嗣の後継者である【諏訪勝頼】となりました。

そうはいえども、諏訪郡統治や、諏訪大社の祭祀に、彼の関与の形跡はなく、どこか中途半端な体制であります。

寅王丸のこともあり、諏訪衆には勝頼への反発もあったのでしょう。

そもそも、この「勝頼」という名前にも、彼の中途半端な立場を感じさせます。

武田信玄の親族や家臣の重要性は、諱からうかがえます。

甲斐武田における諱の重要性

【信】の字 → 武田氏の通字(義信)

【虎】の字 → 武田信虎から

【昌】の字 → 武田中興の祖・信昌から

【勝】の字 → 信玄の幼名・勝千代から(勝頼)

ご覧のとおり、勝頼は義信より扱いがかなり低い。

その理由は、母が正室であるかどうか、という差も考えなくてはなりません。

キリスト教圏では、生母の地位と正式な結婚であるかどうか――というのは継承権の上で重要視されます。

あのナポレオンですら、庶子がいても継承権はありません。これは非常に重要なことです。

東アジア文化圏では、生母が側室であっても継承権そのものは失われません。

ただ、誤解を生みやすいところでもあって、

【庶子は継承権がある】=【生母の身分は関係ない】とはならない

ことに注意が必要です。

結局、母の身分はとても大切なのです。

江戸時代の将軍は、ほぼ側室が生母であることが続いています。そうしたことから誤解が生じやすいのでしょう。

正室と側室いずれにも男子がいた場合、正室の子の方が優遇されます(織田信長も順番だけ見れば長男ではなく、側室から生まれた兄がいる)。

さらには側室同士であっても、身分に明確な差があれば、より「上」のほうが有利なのです。

なんせ我が国には

「劣り腹」=身分が低い母生まれの子

という、ゾッとするような言葉もあったほどですから。

このことを踏まえますと、勝頼が出生時から背負った不運がおわかりいただけるかと思います。

滅ぼされた家の不吉な姫が母――。

生まれながらにして、武田家の男子としては一段低く、家臣として一門を支える役割を期待されていたのです。

それが今川氏との関係悪化によって嫡男の武田義信が追い詰められ、病気(自害とも)で亡くなり、想定外の相続をすることになったのでした。

 

想定外の武田家相続、その困難

武田勝頼の悲劇の始まり。

それは彼が想定外の後継者だったことです。

想定外の後継とは、古今東西、困難を招くものです。

例えば映画『英国王のスピーチ』でも、ジョージ6世の苦悩が描かれていました。

 

何かと問題を抱えていた兄・エドワード8世よりも、ジョージ6世は国王の資質があったとされております。

しかし、です。

ことの本質は【個人の資質以外】にあります。

後継者は、継承を想定した教育を受け、それを前提に、脇を支える家臣や側近が揃えられます。

そうした準備なしに継ぐということは、本人にも周囲にも軋轢を生むものです。

勝頼も例外ではありませんでした。

・不吉な側室を母とする子

乾福寺殿が側室となった時点で武田家臣団には不満があり、その子が後継者になるだけで反発が起きやすい。

後継者としての経験も、義信と比べて圧倒的に不足していた。

・親今川派であり、かつ義信側近だった家臣たちの反発

織田・徳川に内通した義信派の家臣もいた(曽根氏)。

・信玄ですら、勝頼はあくまで「中継ぎ」扱いとしている

→嫡男の竹王丸が16歳になったら、家督を譲るという指示が出された。

・諏訪法性の兜継承は許可するものの『孫子』(「風林火山」の旗)は禁止する

→「風林火山」を勝頼が失ったわけではなく、封じていたのは信玄そのもの。

 

いかがでしょう?

かように背負わされた不利な条件が、どれだけ勝頼を苦しめたか……想像するだけで胸が苦しくなります。

こうした「中継ぎ扱い」による精神不安定は、他の家でもあります。

織田信長の二男・織田信雄や三男・織田信孝は暗愚だと描かれがちです。

跡継ぎではない彼らは、弟という時点で、長男・織田信忠に比べてハンデがありました。

豊臣政権では、豊臣秀吉の実子・豊臣秀頼の誕生によって中継ぎにされた豊臣秀次が、重大深刻なうつ状態に陥ったとされています。

豊臣秀次/wikipediaより引用

世界史に目を向けますと、強引な対処で後継を覆した例もあります。

が、禍根を残すことも多いものです。

◆イングランド王・リチャード3世

→甥殺害疑惑がつきまとう。戦場で斃れた最後のイングランド王に。

◆明・永楽帝

→「靖難の変」で甥・建文帝を倒しての即位。甥生存の猜疑心がつきまとった結果が、鄭和の大航海や宦官の重用につながる。

こうした状況は、勝頼という人となりを考える上で重要ではないでしょうか。

そして元亀4年(1573年)、ついに偉大なる信玄が亡くなります。

 

父の死を三年秘すべし

元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄死去――。

「その死を三年秘すべし」という遺言はあまりに有名であり、後世においては信玄の偉大さを示す言葉として解釈されてきました。

が、果たしてそれだけでしょうか。

信玄の功績は確かに偉大です。

ただし、晩年の対外戦争においては強引さもありました。義信と繋がりの深かった今川氏との関係も、その現れでしょう。

織田信長、徳川家康、上杉謙信――といった強力な大名と戦う中で、自らが倒れては危険であると認識していたということは、すなわち【武田家の不安定さを危惧していた】とも考えられます。

上杉謙信/wikipediaより引用

そして武田勝頼は、父の遺言に従い、その死を偽装し続けました。

書状に残る花押や署名に、その跡が残されています。

北条氏政が家臣を派遣した際には、叔父であり父によく似た武田逍遙軒を会見させたとされています。

こうした一連の対処法は、果たして正しかったのか。

「三年秘喪」というような処理がされたのは、なにも信玄だけではありません。

例えば三好長慶も二年間秘匿しておりますが、信玄の場合、あっけなく外に発覚してしまうのです。

同盟者である北条氏政・顕如(本願寺)からは、追悼ではなく家督相続祝いが送られる一方で、敵対者の間では信玄の死という真相は、死後数ヶ月で知らされておりました。

本願寺の顕如上人/wikipedia

この秘匿こそ、かえって武田の不安定さを対外的に証明してしまったことは、十分に考えられます。

懸念材料は、それだけではありません。

信玄を支えた宿老の目から見ると、息子世代の勝頼はあまりに若い御屋形様として映りました。

28という相続年齢は、決して若すぎるとは言えません。それでも彼らからすれば、そう見えてしまう。

さらには勝頼世代の家臣たちも、信玄世代から見れば、ひよっこ同然であり、両世代間には互いへの不信感があった形跡がみられます。

それだけではありません。

家督を継いだ勝頼には、課題が山積みでした。

・内政の不安

・外交や合戦により作られた敵の包囲網

・家臣間の世代格差と不和

家督相続のスタート段階で、これだけの不安を抱えさせられているのです。

これを好機とみなしたのが、織田・徳川でした。

彼らにとってはすでに状況は整っておりました。

・足利義昭の降伏

・朝倉義景の滅亡

・浅井長政の滅亡

・三好義継の滅亡

・松永久秀、織田に帰参

「元亀騒乱」と呼ばれていた情勢は、劇的に織田信長の勝利に染められていくのです。

徳川家康は、信玄によって圧迫されていた三河を取り戻すべく、反攻に出ました。

徳川家康/wikipediaより引用

駿府、井伊谷を攻めたのです。もはや三河をつなぎとめることができず、徳川につく家臣も出てきました。

飛騨・美濃も、武田家の支配下から離れます。

勝頼にとって、あまりに多難な出発でした。

 


二年目の進展

天正2年(1574年)、この年は追放した我が子・信玄の死を受けて、武田信虎が帰国しています。

そんな祖父の動向に、勝頼は神経を尖らせていたようです。

再び権勢を握らないかと不安になるほど、己の基盤が脆弱だと感じていたのでしょう。

このころ、信玄の宿敵であった上杉謙信は、勝頼をこう酷評しています。

「勝頼の武略は、武田の名に劣るものである」

しかし、そんな侮辱を吹き飛ばすかのように、勝頼は東美濃を攻めます。

武田勢は同地方への攻勢を強めており、その中で選択肢を迫られた一人に信長の叔母・おつやの方もいます。

彼女は甥を離れ、武田につくこととなったのです。この女城主のことを、頭の隅に入れておいていただければと思います。

勝頼には、東の援軍として北条勢、西には亡命中の足利義昭や六角義賢がおりました。

彼らと手を組めば、織田にも対抗はできるのです。

かくして武田勢、5月には高天神城を包囲し、降伏に追い込みます。

高天神城

高天神城図photo by お城野郎!

勝頼を「小僧」とか「父に劣る」などとみなしていた周辺大名が、顔色を変えるほどの快進撃。

このあたりから遠江支配、内政基盤の拡充に取り組んでいくのです。

偉大なる父の三回忌に向け、勝頼は邁進していたことでしょう。

いよいよ喪を秘すべき三年が終わり、そして、運命の天正3年(1575年)を迎えるのでした。

 

膠着する武田・徳川・織田

勝頼の前に、課題は山積みです。

同盟者相手に「自分が頼りになるところを見せなければならない」ことを痛感。そのためにも、まずは徳川家康の三河制覇を目指します。

しかしここで、信長が動き始めます。

信長も武田の強さは知っておりますし、織田家には他に多くの敵がおります。そうやすやすと動けるものでもありません。

それでも、腰を上げた。

そう、天正3年(1575年)における【長篠の戦い】です。

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用

結果的に織田・徳川連合軍が大勝利をおさめるこの一戦。

あまりに劇的な勝利だったため【そこには何か特別な秘密があったはずだ】と、長いこと考えられてきました。

例えば「信長の鉄砲三段撃ち」なんかはその一つ。現代では否定されているこのような話がまかり通ったのはなぜなのか。

次ページにて冷静に考えてみたいと思います。

 


伝説から離れてあの戦いを考えてみる

こうした派手な伝説は、史実だったのか?

いや、どうも、そうではないと近年論じらるようになりました。

長篠の戦い当時の武田軍ならびに織田軍に注目してみますと……。

・武田家では騎馬兵を重視し、鉄砲を軽んじていた

その確証は得られません。

鉄砲の配備が記録に残っています。

・武田騎馬軍団

東日本では西日本と比較して、馬に乗った戦術が重視されていた点は重要。

馬防柵は存在しましたし、鉄砲隊を崩すのに騎馬が使われることもありました。

ただし、西洋の騎兵のような、乗馬したまま団体で突撃する戦法であったとは考えにくい。

・織田勢における兵農分離

→確証はありません。

たった一人の革新的天才が、戦争を変えた――そんな伝説は非常に魅力があります。

例えば孫子や、ズールー族のシャカもそうでしょう。

あるいは幕末の日本ではナポレオン戦争の歴史を学び始め、西洋の戦術に衝撃を受けました。

「フランスのナポレオンに学ぼう!」と讃えられ、しかし、普仏戦争後は「プロイセンに学べ」となったわけです。

そんな中で、日清戦争や日露戦争を経て、日本人は自信を持ち始めたわけですが、そうなると日本の歴史においても、フリードリヒ大王やナポレオン、ウェリントン公のような英雄がいたはずだ!と思い始めます。

むろんそうした過去へのリスペクトは結構なことかと思います。

例えば、最上義光顕彰を見てみますと、

「国民に尚武の気風が貧弱であるうちは、到底列強各国との競争に対峙することなどできない。

であるからして、英雄崇拝が日本の国民性として意義があることは否定できない。

我等が山形中興の最上義光公は、この意味において最も崇拝すべきグレートマンであると同時に、山形市が今日において東北地方の一都市として雄を競うにたるのも、義光公の遺徳であるのは、言うまでもないことである」

なんだか、すごい理屈で褒められています。

こうした現象の問題は、一度の顕彰で終わらないことです。

「我々の祖先たる戦国大名も、何かすごい戦術や改革をしていたはず!」

そんな後世の願望が強すぎて、西洋寄りの戦術と混同するような傾向が見られるようになるのです。

戦前の軍参謀本部の分析が、その典型例でしょう。

その影響は、現在も払拭されたとは言えません。

「織田信長とエリザベス1世下の英国軍はどちらが強いのか?」というような記事も時折見かけますが、海軍力が強みだったイギリスと、そうではない日本とでは、比較のしようがありません。

フェリペ2世と豊臣秀吉の対決ならば、まんざらifとしてありえないわけでもありませんが……。

ともあれ、ファンタジックな過大評価は、あくまでゲームや漫画にとどめておかねればなりません。

伊達政宗の「騎馬鉄砲隊」も、そうした一例でしたね。

この手の背伸びした歴史はさておき、誇張のない「長篠の戦い」を考えてみますと、地盤による差はあるものの、軍隊の編成が大きくとなっていたわけでもありません。

ではなぜ、ここまで大きな勝敗の差がついたのか。

 

「長篠の戦い」

結論から申しますと、この戦いの決定打はまだはっきりとしておりません。

しかし、一定の要素は認められている。

・織田徳川連合軍は柵の内側に立てこもり、実際よりも兵を少なく、士気が低いように偽装していた

・若い勝頼は、経験豊富な宿老の懸念を押し切って主戦論に傾いていた。とはいえ、当時30歳という年齢が、そこまで若いかどうか、判断がつきかねる

・徳川勢(酒井忠次ら)が武田勢の背後をつき、退路を絶っていた

こうした要素はあります。

とはいえ、誇張もあるのです。

・戦いは数刻に及んでいて、あっという間に勝利したとは言えない

・徳川勢が乗馬しなかったという記録はあるが、そこまで編成が異なっていたという証拠とも言いかねる

冷静かつ慎重に考えれば考えるほど、決定打はわからなくなります。

長篠の戦い(設楽原)に設置された馬防柵

だからこそでしょうか。

後世の記録は誇張が増え、ますますわかりにくくなっています。

膨大な戦死者がいたことははっきりしています。

ただ、実数や損耗率は不明。これは戦国時代の合戦ではままあることでした。

いかんせん両軍の規模は莫大です。万単位であることは容易に推定。単に推定ではなく、確定した損害もあります。

以下は、この戦いで敗死した、名だたる家臣や将たちです。

【甲斐】
土屋昌続
武田信実
甘利信康
米倉丹後守

【信濃】
馬場信春
市川昌房
香坂源五郎
望月信永

【上野原・西上野】
内藤昌秀
真田信綱
真田昌輝
安中景繁
和田業繁

【駿河】
山県昌景
原昌胤
土屋貞綱

【足軽大将】
三枝昌貞
横田康景
山本管助(二代目)

戦争の結果とは、死者数だけでは判断できません。

【将・指揮官の死】に注目してみますと、この戦いの被害がいかに甚大だったかご理解できるはず。

例えばナポレオン第一帝制における斜陽は、1809年とされることが多いですが、この年、帝国元帥の一人であり、勇者と名高いジャン・ランヌ元帥が「アスペルン・エスリンクの戦い」において戦死しておりました。

元帥は、軍制における華であり、頂点の象徴が失われるということ。

それは制度崩壊に直結するとみなされます。

日露戦争でも、日本は辛勝していながら前線に立っていた下士官クラスの損害は膨大なものでした。

これはのちに日本軍にも暗い影を落とすことに繋がっていきます。

第一次世界大戦におけるイギリス軍では、士官となった貴族子弟が多数犠牲になりました。

結果、貴族制度が大変革を迎えているほどです。

 

こうしたケースを踏まえて「長篠の戦い」死傷者の内訳を確認してみますと、武田は士官にあたる将の死傷があまりに膨大でした。

【兵士の死以上に、士官や将の死の場合は制度の疲弊や崩壊を招きかねない】

「長篠の合戦」における経過や勝因の決定打は不明です。

はっきりとわかっていることは、これが武田家の柱石をなぎ倒した――もはや引き返せぬ大敗北であったことは確実。

そしてその余波は、同盟相手にも及びました。

織田勢は武田についた岩村城を攻め立てます。

敗戦から回復できていない武田家の援軍は、年少者や還俗させた僧侶によるもので、頼りにならないものでした。

岩村城跡

武田についていた岩村城の城主であったおつやの方は敗北し、甥である信長によって処刑されています。

そしてこの一件は、単なる一つの悲劇では済みませんでした。

戦国大名の働きとは、同盟相手の保護にあります。

味方を守る力がなければ仲間内から見限られ、その信頼は簡単には回復できないものです。

勝頼当主の武田家は、信玄の服喪が終わった三年目にして、亀裂が生じておりました。

 


戦後処理からの立て直しをはかる

前述の通り、将の死は体制の崩壊そのもの。

再度立て直すのが急務であり、勝頼は、後継者を失った多くの家の編成に着手しました。

一例として挙げられるのが、嫡男・真田信綱と、二男・真田昌輝を失った真田家でしょう。

信濃の有力国衆である彼らは、三男・真田昌幸を武藤家から戻し、継がせることで保たれました。

真田昌幸/wikipediaより引用

しかし、そう単純な話でもなかったのです。

確かに真田家は元に戻りましたが、武田家にしてみれば武藤家を失ったということになります。

しかも、将棋の駒を並べるように単純なものではなく、心情的な理解やフォローも大切となってきます。

本来なら昌幸は、甥が成人するまで一時的な代理として統治するはずでした。

それをさしおいて真田家を継がせるということは、勝頼自身が予定のなかった武田家跡継ぎで苦労したように、昌幸にとっても大変なことなのです。

その点を気遣ってか。

真田昌幸は、自身の嫡男・信幸の正室に、真田信綱の娘である姪の清音院殿を迎えています。こうしておけば孫の代で、本来の嫡流・信綱の血を引くことになるわけです。

家伝文書も継承せず、信綱の遺児に相続させました。

後に「表裏比興の者」として徳川や北条をさんざん振り回した昌幸ですら、ここまで苦労しているのです。

当時の武田家中にはそんな例がいくつもありました。

一番、心労をすり減らしたのは、勝頼だったことは間違いないでしょう。

やることはまさに山積み。

・家臣の相続管理

・軍団再編成

・外交関係の立て直し

・信玄の本葬儀

・領内における寺社仏閣の管理、祭礼

・金山枯渇対応、商人の保護

家中を引き締めつつ、経済、政治、外交を回し続けなければならないのですから、かなりムチャな話でもあります。

天正5年(1577年)には、「甲相同盟」のもとで、北条氏康の女(むすめ)・桂林院殿が勝頼正室として嫁いで来ます。

桂林院殿/wikipediaより引用

勝頼の領国経営は、試練にさらされ、厳しいものではありました。

それでもまだ「甲相同盟」は保たれていたのです。

しかし、これまた崩壊へ……。

その契機は、上杉家からもたらされたのでした。

 

北条と上杉のはざまで

後継者の選定が難しいことは、何も武田家だけではありません。

かつて武田信玄のライバルだった上杉謙信の越後でも、跡継ぎをめぐって家中が真っ二つに分かれました。

いわゆる【御館の乱】と呼ばれる御家騒動です。

「(女性を放棄し)不犯を貫いた君主」というものは、高潔であっても大迷惑であることは、世界史の例でも示されています。

世界史では、不犯君主の家が滅びてしまうものですが、日本の戦国時代は隣の家にも災厄がふりかかったりします。

天正6年(1578年)、上杉謙信が急死。

確かにこの3年前、謙信は甥の上杉景勝を後継者として指名おりました。

上杉景勝/wikipediaより引用

ところが、それ以前に北条氏出身の養子・上杉景虎も迎えています。

ここから内乱が勃発するのです。

勝頼は戸惑いました。

謙信と和睦し、「織田包囲網」を形成しながら反転攻勢を狙っていた最中のことであり、まったく予想外の出来ごとであったのです。

もしも謙信が病臥するなりしていたらば、また違ってはいたのでしょう。

北条氏政は別の敵に手一杯であり、実弟・上杉景虎の支援を武田に依頼します。

勝頼も、はじめのうちこそ景虎支援でした。「織田包囲網」を作るのであれば、北条との同盟は欠かせません。

ところが、上杉家の騒動が長引くと、いよいよ織田包囲網が機能しなくなる。

どうすべきか?

上杉と北条のパワーバランスを考えても、難しいものがあります。

景虎が勝利して上杉家と結びついたらば、上杉と北条の同盟は強固なものとなります。

それが武田にとってよいことなのか?

かといって景勝が勝利すれば、武田と北条の同盟破棄は免れません。

北条氏政/wikipediaより引用

勝頼の出した答えは、どちらでもない【中立】でした。

・上野領の分割

・黄金500両贈答

・勝頼の妹である菊姫と景勝の婚儀

この条件で、講和の仲介をするとしたわけです。

勝頼は北条側に動きを悟られないようにしながら、和睦を進めようとします。

北条側にはあくまで景虎支援、それでいながら景勝には和睦と言い張り、ことを進めねばならない。胃が痛くなりそうな話です。

さらにここで、最悪のタイミングで厄介な事態が起こります。

北条側と領地を接している真田昌幸が、沼田城攻撃の動きを見せ始めたのです。

なんせ北条側が景虎支援に乗り出した直後のことです。

厳重抗議をしてきました。

薄氷を踏むような出馬を経て、講和が成立しかけたものの、そう簡単にうまくはいかない。この好機を徳川家がつき、勝頼は対処を迫られます。

景勝と景虎からすれば、こう解釈されてもおかしくないのです。

「武田は和睦交渉を破棄したぞ!」

結果、景勝が勝利し、景虎は自刃へ追い込まれました。

こうした一連の出来事、北条氏政からすればこうなります。

「武田は和睦するといいながら景虎を見捨て、勝手に離脱した。そのうえで上杉と同盟を結ぶとは! しかも真田は我が領土を狙っているではないか」

景勝が勝利すると、武田・上杉の間では同盟=「甲越同盟」が結ばれることとなるのですが、これは想定外のものでした。

北条側は、景虎を見殺しにした勝頼へ強い不信感を抱き、同盟は破棄となります。

当然、パワーバランスも、大きく狂ってしまいます。

内乱で荒廃した上杉家は、謙信時代の力は残されておりません。

これは直江兼続の扱いからも、推察できます。

直江兼続/wikipediaより引用

それまで目立つことのなかった兼続が、シンデレラボーイさながらに引き立てられたのは、才能ゆえだけとは思えません。

景勝体制は、それだけ人員不足であり、育成から始めねばならなかったのです。

景勝&兼続の名コンビというのは、あくまで後世目線であり、当時は頼りない若者二人とみなされていてもおかしくはありません。

武田が、北条と開戦してまで、上杉と同盟するメリットとは?

想像するだけで暗澹としてくる、難しい展開でした。

 

パワーバランスの再構築

事ここに至り、もはや絶望しか湧いてこない状況ですが、武田勝頼が何もかも諦めたわけではありません。

彼なりに、立て直しを懸命にはかっていたことは伝わってきます。

北条との対決が不可避となった今、真田昌幸を筆頭として攻めるほかありません。

上野方面では、昌幸の動きの冴えもあったのか、なかなか順調な戦況を見せております。斜陽の武田家中で、昌幸だけは元気満々にすら思えてくる、なんだか恐ろしい話ではあります。

戦線だけではなく、外交も重要であり、

・上杉との同盟「甲越同盟」

・佐竹との同盟「甲佐同盟」

このような関係の締結が行われました。

むろん北条側も無策ではなく、徳川との接近が見られます。

天正7年(1579年)から8年にかけて、嫡子・武田信勝の元服が行われたとされます。

これは彼一人のものではなく、彼と同世代の家臣子息たちも同時に元服。

真田昌幸嫡男の真田信幸(後に真田信之)もその一人でした。

真田信之/wikipediaより引用

これはただの行事だけではなく、家臣の子息取り込みもはかった【体制固め】という意味合いもあったでしょう。

信勝の生母・龍勝寺殿は信長の養女でもあり、織田との関係改善を狙った意図も感じられます。

勝頼の動きをみていくと、どうにも苦しいものがあります。

家臣との情報共有や、信頼関係に亀裂があったのではないか? と思わせ、そしてその解消に彼が如何に心を砕いていたかも想像できてしまいます。

しかも亀裂の原因は、彼自身のせいではない。信玄由来のものも含まれていて、どうにも胸が苦しくなってくるのです。

勝頼の内政固めと外交交渉は、とどまりません。

ついには織田信長との和睦をも狙いに入れました。

ここで包囲網を整理しておきましょう。

◆北条包囲網

武田・上杉・佐竹

◆武田包囲網

北条・織田・徳川

◆織田包囲網

武田・上杉・本願寺・毛利

この複雑怪奇な関係の中で、織田と和睦を結ぶこと(=「甲江和与」)は重要です。

佐竹と織田は友好関係にありますので、一応「甲佐同盟」は役立ちそう……というのは、あくまで武田の都合です。

織田としては、和睦をするか、滅ぼすか。そこが問題です。

織田包囲網の弱体化を、信長が知らないわけもありません。前述の通り、上杉はパワーダウンをしているのです。

しかし勝頼にはカードがありました。

信長五男・織田信房(御坊丸、勝長でも知られる)です。彼は岩山城主であった遠山氏に養子入りしており、勝頼の元で保護されていたのです。

我が子がかかっているとなれば、必死で取り戻そうとすると考えるのは早計。

信房返還をふまえた和睦に対する信長の対応、かなり高慢なもので、先行きは不安そのものでした。

それだけではありません。

上杉景勝が、相談もなしに何をしているのかと厳重抗議をしてくるのです。その上で織田に上杉からも和睦を申し入れたのでした。

信長は「武田も上杉も、どうせポーズだけだろ」という冷たい対応でした。

それもわからなくもありません。

謙信と信玄時代ならば恐ろしかった敵も、今ではそうではない。信長はそう察知していたのでしょう。

 

「高天神崩れ」

危ういパワーバランスの中、決定的な崩壊が起こったのは天正8年(1580年)3月のことでした。

徳川勢が遠江・高天神城の攻略を始めたのです。

何があっても勝頼は、救援に向かわなければならない状況。

しかし、それができません。

・上杉景勝は織田勢との戦闘で手一杯であり、援軍派遣ができない

・4月、本願寺の顕如、織田包囲網から離脱

・北条との戦闘が継続中であり、余裕がない

武田・上杉・本願寺による織田包囲網は、見るも無残に綻びており、織田・徳川を止めようがありませんでした。

徳川家康/wikipediaより引用

徳川からすれば、領内に残った高天神城を落とすのであれば、まさしく好機。

勝頼は「救援しなければ!」と思いつつも、家臣をまとめることができず、彼らを見殺しにするしかありません。

徳川領の遠江で6年間も耐え続けた高天神城は、9月から翌年5月まで徳川の包囲に耐え続けたものの、結局、陥落してしまいます。

要は、見殺しにされてしまったのでした。

戦国大名の果たすべき役割には、同盟者の救援も入っています。

しかも非常に大きな役割です。

その力すらなく、忠義を見捨てた大名は、もはや仕える価値無しと見放されてしまいます。

国衆が大名に仕えるメリットは、庇護されることであった――それがなくなれば、もはや仕える意味は1ミリもありません。

もはやこれまで……。

諦念と新軌道への模索が、始まっておりました。

 

武田氏滅亡

勝頼は、それでも外交交渉を諦めませんでした。

北条に対抗するため、佐竹との同盟強化を模索。新府城の建築と移転も、進めました。

この城は、不幸な結末から、狡賢い家臣のアドバイスによる建築とされますが、そこは差し引いて見た方がよいでしょう。

「長篠の戦い」はじめ、変貌したパワーバランスへ対処するためだったと考えた方が良さそうです。

しかし、天正9年(1581年)末から天正10年(1582年)にかけて、いざ新府城への移転が進められる中、いよいよそれどころではない事態が迫ってきます。

穴山信君(梅雪)は、高天神崩れの戦後処理にあたっていました。

その中で不満を溜め込んだとしても不自然ではなく、実際、穴山信君、曽根昌世らが、内通の動きを見せ始めます。

そんな中、織田信長は木曽義昌の内通交渉を受け、武田攻めの決意を固めるのです。

木曽義昌/wikipediaより引用

勝頼は、この討伐に出馬するものの、呼応するように織田信忠が攻め行ってきました。

そのころ浅間山が噴火。

2016年大河ドラマ『真田丸』第一回でも登場した噴火シーンです。

コミカルな演出と、昌幸の人を食った演技に注目が集まりましたが、武田情勢を描く上で大変巧みな描写でした。

・異変に天変地異が重なることで、運命論、天変地異は悪政の報いであるという考え方が伝わる

・武田家宿老の真田昌幸は、もはや武田家はこれまでだと悟った

・昌幸本人の信玄への敬愛は表現されるものの、勝頼に対してはそこまで強くない――君臣間の距離感が示されている

・昌幸はこの時点で北条氏への接触をはかっており、国衆の辛い立場も示される

信長本人は出馬せずとも、嫡子・信忠、同盟者・徳川家康主従の侵攻により、もはや武田家の崩壊は避けられぬ事態でした。

出来上がったばかりの新府城は、火を放たれてしまいます。

人質としてそこにいた家臣の子女をも巻き込み、できたばかりの城は炎の中へと……。

小山田信茂はじめ、多くの家臣が離脱し、孤立する勝頼。

新府城で切腹すべきだという家臣の提言に従わず、勝頼は落ち延びた先の天目山で切腹しました。

妻子、多くの家臣とともに、勝頼は3月11日、自刃したのです。

享年37。

戦国の雄であった武田家は、なぜかくも滅びてしまったのか?

そんな嘆きだけが、兵どもの夢の跡に残されました。

 

今こそ学びたい、勝頼のこと

本稿は、世界史的な例も挙げ、話をやや大きく広げた感はあります。

しかし、敢えてそうした部分もあります。

不当に貶められていた人物の再評価は、世界史規模で進められており、代表例が断頭台に散ったこの夫妻、ルイ16世とマリー・アントワネットでしょう。

ルイ16世とマリー・アントワネット/wikipediaより引用

現在フランスでは、国王夫妻の処刑はあやまちだったという意見もあります。

君主としての資質にも問題がなく、むしろ太陽王ことルイ14世、最愛王ことルイ15世よりも名君であったという評価もあるほどです。

このルイ16世も、勝頼と似た部分があります。

・想定外の後継者であった

・家にあったシステム疲弊の弊害を受けた

・重なる不運、本人にとってはどうしようもない要素

・貶められた評価

「君主の器量」だけではなく、「システム疲弊の原因」も併せて考えること。

それが、今後の歴史に求められている見方ではないでしょうか。

勝頼の不運と、本人ですらどうしようもなかった要因は、本稿のここまでで見てきた通りです。

重苦しくなるような内容とはいえ、それだけではない興味深いことも多かったと感じませんか。

「英雄がなぜ成功したのか?」

と、同時に

「システムはなぜ崩壊するのか?」

を学ぶことも、歴史の面白さであり、意義でもあるのではないか。

勝頼はその絶好の一例である気がしてなりません。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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