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【武田信虎】
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剛柔使い分けながら甲斐を安定させる
老練な戦国武将である油川信恵に対し、まだ十代半ばの若き当主である武田信虎。
どう見ても不利な状況である信虎は、周囲の予想に反し【坊ヶ峰の戦い】で勝利をおさめ、反抗的な油川氏をほぼ討滅させて苦難を切り抜けます。
しかし内乱はまだまだ終わりません。
次に小山田氏が攻め込んでくると、信虎はこれを返り討ちにするばかりか、当主・弥太郎を討ち取る快挙を成し遂げます。
信虎は、畳み掛けるようにして姉を小山田氏に輿入れさせ、剛柔を使い分けながら甲斐の安定化を進めました。
いかがでしょう。
暴力に走る暴君どころか、身内争いに苦悩する少年当主の姿が見えてきませんか。
しかし哀しいかな、まだまだ甲斐国内での争いは終わりません。
永正12年(1515年)には大井信達が反乱。
大井氏との戦いは三年にも及び、この間、今川氏まで甲斐へ攻め込んでくるという非常に危険な状態にもさらされました。
戦いが落ち着くと、武田信虎は大井信達の娘を正室として娶ります。
彼女こそ、信玄の母である大井夫人です。
革新的だった甲府への本拠地移転
政略結婚により妻を娶り、内乱もいったん落ち着き、未来を見つめる余裕もできたのでしょう。
武田信虎に【甲斐統一】という大目標が見えてきました。
そうなれば、本拠地を築くことこそ急務。
信虎は永正16年(1519年)、新府中(府中=本拠地)を築き上げ、移転することにしました。
鍬入れを行い、躑躅ヶ崎館を建てる――この新たなる都こそ甲斐国の府中、すなわち甲府であると信虎は宣言します。
現在に至るまで山梨県庁のある甲府は、信虎が築き、命名した都市なのです。
信虎の先進性は、この甲府に国衆や家臣を住まわせた点にもあります。
国衆の反乱に手を焼いていた甲斐武田氏ならではの斬新な発想とも言え、豊臣政権や徳川幕府においても本拠地に妻子を住まわせる政策が採用されました。
人質生活を強いられた子供たちにもメリットはあります。武田家のエリートとして教育が施されるのです。
わかりやすい例でいうと真田昌幸もそうで、名だたる知将もこうした制度の下で育成されていたのでした。
真田昌幸は誰になぜ「表裏比興」と呼ばれたのか 65年の生涯で何を成し遂げた?
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長男・勝千代の誕生
荒れていた甲斐を着実に安定化させていく武田信虎。
その手腕は周辺勢力を刺激し、大井氏の反乱に乗じて甲斐攻めを行った今川家が再び攻め込んできました。
戦いは信虎不利に働き、今川勢の侵入を許し、ついに甲府盆地まで敵がやってくると信虎は正室を躑躅ヶ崎館の背後にあった要害山城へ退避させます。
武田家にとってはかなりのピンチ。そして実はこのとき、彼女は臨月でした。
※躑躅ヶ崎館(現・武田神社)から要害山城へは3.4kmの距離
今川勢を「飯田河原の戦い」で退けた信虎は、重なるような吉報を受け取ります。
大井夫人が、男児を無事出産したのです。
大永元年(1521年)秋に生まれた勝利の申し子のようなこの子は、勝千代という幼名がつけられました。彼こそがのちの武田信玄です。
信虎が今川勢を撃退すると、大井夫人と勝千代は躑躅ヶ崎館に帰還。
それでも牙を剥く国衆は数多おり、信虎は粘り強く彼らを撃ち倒しいくと、天文元年(1522年)、ようやく甲斐統一を成し遂げます。
信虎と信玄の少年時代は、状況が全く異なるわけです。まさしく偉大なる父・信虎あっての信玄でした。
尾張守護代の家臣だった織田信秀が急速に勢力を広げ、それを受け継いだ織田信長とよく似ています(信長は家督継承後に相当苦労しておりますが、それでも斎藤道三の娘を正室にするほどには恵まれてました)。
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