フィクションと史実は別物――そうはわかっていても、名前を聞くだけでドラマの場面がありありと浮かんでくる歴史人物は何名かいます。
天正2年(1574年)3月5日に亡くなった、武田信虎もその一人でしょう。
何と言っても印象的なのが息子・武田晴信(後の武田信玄)との不仲っぷり。
理不尽な理由で晴信を冷遇しては、弟に家督を譲ると言い出す――暗君としか言いようのない姿が目に浮かびますが、これが作られた像だとすれば?
信虎については、近年研究が進められ、毒親以外の実像が浮かび上がってきます。
地元でも、甲府を作った人物として顕彰されるようになり、2021年には映画化までされましたね。
では誤解まみれの信玄の父とは、実際どのような人物だったのか?

武田信虎/wikipediaより引用
本稿では武田信虎の生涯を振り返ってみたいと思います。
※名前は信虎で統一します
親子二代で躍進する戦国大名
まず初めに確認しておきたいことがございます。
武田晴信との確執から、最終的に国を追い出されてしまった武田信虎。
戦国時代ともなれば、彼らに限らず「親子での争い」はままあることでした。
その結果、勝者側が敗者側を必要以上に貶め、人格を否定する現象は多い。
さらには息子の輝きが強すぎるあまり、父の業績が過小評価されてしまうことも珍しくありません。
例えば斎藤道三は、一代で成り上がったという説は払拭され、大河ドラマ『麒麟がくる』でも父子二代での下剋上だという設定になりました。

斎藤道三/wikipediaより引用
同ドラマでは織田信秀の優秀さも描かれておりましたよね。
元々、信長の属する織田家は分家で、尾張の中では小さな勢力だったのを一気に拡大させたのが信秀です。
織田信長だけではなく、他にも伊達政宗なども父が優秀であればこそ、その息子が飛躍できた。
群雄割拠する戦国時代において、一代だけで躍進を遂げるのは難しく、必ず土台が必要になるのです。
それは武田信虎と信玄でも同じことが言えます。
甲斐守護である武田氏は、室町時代中期以降かなり弱体化しており、それを再び盛り返して統一したのが武田信虎でした。
厳しい乱世の甲斐国
源氏の名門とされる武田氏。
源頼光から始まり、その曾孫の武田信義が初代・甲斐武田氏となってから武田信虎まで、実に15代続いておりました(甲斐源氏としては18代・詳細は以下の武田信玄記事をご覧ください)。
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武田信玄の生涯|最強の戦国大名と名高い53年の事績を史実で振り返る
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途中で分派した安芸武田氏や若狭武田氏と比べると、甲斐は別格で強い!と思いがちですが、それはあくまで後世のバイアス。
本家の甲斐武田氏も度々ピンチを迎えております。
いったん守護の座を追われ、第11代・武田信重の代で守護として復帰するも、第13代信昌・第14代信縄の父子が対立をして乱れる――信虎にとっては祖父と父が争うという厄介な状況でした。

武田菱/wikipediaより引用
それでなくても甲斐は過酷な土地柄です。特に他エリアと比べて気象条件が殊のほか厳しい。
・森林率が高く、農地が狭い
・しかも農地が山沿いにあり農業生産が大変
・昼夜の気温差が激しい
・降水量が少ない
今でこそ、こうした条件が果物栽培に適しているとされておりますが、穀物である稲作や麦の育成は厳しいものがありました。
昆虫食である「はちのこ」が伝統的なのも「食べ物が少なかったから」と地元の方が話していたことがあります。そう言い伝えられるほど、厳しい土地だと感じたものです。
しかも戦国期は寒冷であり日本全体が厳しい時代でした。
その上、火山も地震も多い甲斐では天変地異の影響や農業の不作により、為政者である守護は、国衆や親類衆からプレッシャーをかけられたものです。
武田信虎が生まれたのも、まさにそんな時代でした。
生誕当時から父は祖父&弟と揉めていた
武田信虎は明応3年(1494年)、甲斐国守護・武田信縄の長男として生誕(1498年説あり)。
武田氏惣領の仮名である五郎を名乗りました。
前述のとおり武田信縄は、信虎にとっての祖父である武田信昌、そして信縄の弟・油川信恵と対立しておりました。
武田信縄
vs
武田信昌&油川信恵
信虎誕生も、まさにこの最中。
きょうだいの数には恵まれており、血族が多いことは大名としては有利なことでしたが、争いの火種にもなるものです。
事実、信虎も父・信縄の死によって家督相続をすると、その直後から困難にぶつかりました。
永正4年(1507年)のことです。
かつて父の信縄と揉めていた叔父の油川信恵が、武田家の家督を狙い、信虎の前にも立ちはだかったのです。

【祖父】武田信昌
│
【父】武田信縄――【弟】油川信恵
│
【父】武田信虎
もはや歴史的に定番とも言える
【叔父vs甥】
※信恵vs信虎
という構図ですね。
剛柔使い分けながら甲斐を安定させる
老練な戦国武将である油川信恵に対し、まだ十代半ばの若き当主である武田信虎。
どう見ても不利な状況である信虎は、周囲の予想に反し【坊ヶ峰の戦い】で勝利をおさめ、反抗的な油川氏をほぼ討滅させて苦難を切り抜けます。
しかし内乱はまだまだ終わりません。
次に小山田氏が攻め込んでくると、信虎はこれを返り討ちにするばかりか、当主・弥太郎を討ち取る快挙を成し遂げます。
信虎は、畳み掛けるようにして姉を小山田氏に輿入れさせ、剛柔を使い分けながら甲斐の安定化を進めました。
いかがでしょう。
暴力に走る暴君どころか、身内争いに苦悩する少年当主の姿が見えてきませんか。
しかし哀しいかな、まだまだ甲斐国内での争いは終わりません。
永正12年(1515年)には大井信達が反乱。
大井氏との戦いは三年にも及び、この間、今川氏まで甲斐へ攻め込んでくるという非常に危険な状態にもさらされました。
戦いが落ち着くと、武田信虎は大井信達の娘を正室として娶ります。
彼女こそ、信玄の母である大井夫人です。
革新的だった甲府への本拠地移転
政略結婚により妻を娶り、内乱もいったん落ち着き、未来を見つめる余裕もできたのでしょう。
武田信虎に【甲斐統一】という大目標が見えてきました。
そうなれば、本拠地を築くことこそ急務。
信虎は永正16年(1519年)、新府中(府中=本拠地)を築き上げ、移転することにしました。
鍬入れを行い、躑躅ヶ崎館を建てる――この新たなる都こそ甲斐国の府中、すなわち甲府であると信虎は宣言します。
現在に至るまで山梨県庁のある甲府は、信虎が築き、命名した都市なのです。
信虎の先進性は、この甲府に国衆や家臣を住まわせた点にもあります。
国衆の反乱に手を焼いていた甲斐武田氏ならではの斬新な発想とも言え、豊臣政権や徳川幕府においても本拠地に妻子を住まわせる政策が採用されました。
人質生活を強いられた子供たちにもメリットはあります。武田家のエリートとして教育が施されるのです。
わかりやすい例でいうと真田昌幸もそうで、名だたる知将もこうした制度の下で育成されていたのでした。

真田昌幸/wikipediaより引用
長男・勝千代の誕生
荒れていた甲斐を着実に安定化させていく武田信虎。
その手腕は周辺勢力を刺激し、大井氏の反乱に乗じて甲斐攻めを行った今川家が再び攻め込んできました。
戦いは信虎不利に働き、今川勢の侵入を許し、ついに甲府盆地まで敵がやってくると信虎は正室を躑躅ヶ崎館の背後にあった要害山城へ退避させます。
武田家にとってはかなりのピンチ。そして実はこのとき、彼女は臨月でした。
※躑躅ヶ崎館(現・武田神社)から要害山城へは3.4kmの距離
今川勢を「飯田河原の戦い」で退けた信虎は、重なるような吉報を受け取ります。
大井夫人が、男児を無事出産したのです。
大永元年(1521年)秋に生まれた勝利の申し子のようなこの子は、勝千代という幼名がつけられました。彼こそがのちの武田信玄です。
信虎が今川勢を撃退すると、大井夫人と勝千代は躑躅ヶ崎館に帰還。
それでも牙を剥く国衆は数多おり、信虎は粘り強く彼らを撃ち倒しいくと、天文元年(1522年)、ようやく甲斐統一を成し遂げます。
信虎と信玄の少年時代は、状況が全く異なるわけです。まさしく偉大なる父・信虎あっての信玄でした。
尾張守護代の家臣だった織田信秀が急速に勢力を広げ、それを受け継いだ織田信長とよく似ています(信長は家督継承後に相当苦労しておりますが、それでも斎藤道三の娘を正室にするほどには恵まれてました)。
今川と手を結んでさらに躍進 次は信濃へ
幾度か甲斐へ攻め込み、武田氏の宿敵となっていた今川氏。
天文5年(1536年)、その今川氏で大騒動が巻き起こります。
今川氏輝が若くして急死すると、家督継承を巡って【花倉の乱】が勃発したのです。
勝利をおさめたのは栴岳承芳こと後の今川義元。
このとき義元は武田に援助を求めており、これを契機に両国の間で同盟が成立するのです。
この同盟は、武田にとって大きな影響をもたらし、それは嫡男・晴信の正室にも見て取れます。
信玄の正室である三条夫人は京都・三条公頼の娘です。
この縁談の背後には、今川義元の母・寿桂尼がいたのです。
もともと彼女は公家の出身であり、京都の人脈がありました。

寿桂尼/wikipediaより引用
今川氏と同盟を結ぶことによりさらに足場を固めた武田信虎は、新たに目標を定めます。
信濃攻略です。
まずは南信濃の諏訪氏と戦い、手を結ぶと、小県へ侵攻を始めるのですが、ここには滋野一族がおりました。
彼らと激突したのが天文10年(1541年)の【海野平の戦い】。
滋野一族とは何者か?
そうです、あの真田一族です。
突然のクーデターで帰還を果たせず
【海野平の戦い】を制した武田信虎。
絶好調!
向かうところ敵なし!
と言いたいところですが、思わぬ事態が起こります。
天文10年(1541年)のことです。
小県郡から戻った信虎は、少数の供回りを引き連れ、今川義元を表敬訪問しました。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
娘であり信玄の姉でもある定恵院が義元に嫁いでおりますから、優しい父親の一面が垣間見える、そんな旅行でした。
ところが、です。
いざ甲斐へ帰還しようとすると入れない。
重臣たちが晴信(のちの信玄)を擁立し、入国を拒否するという異常事態に陥ったのです。
当時、武田信虎の歳は44とも48とも。晴信は21でした。
板垣信方が「好機である」と持ちかけ、甘利虎泰、飯富虎昌らを説得してのクーデターであります。
ただし、甘利虎泰は乗り気ではありませんでした。
いくらなんでも主君追放とはどうなのか……そんな迷いがあったわけですが、一方でそうせざるを得ない国内状況であったとも言えます。
実は、このクーデター当時、甲斐では軍事面以外での大激変が起こっていました。
信虎追放は民衆や国衆からの支持もあった?
天文9年(1540年)、甲斐と信濃は大災害に見舞われておりました。
不作、大雨、巨大台風――そんな大災害が頻発していたのですが、その最中も合戦を続ける武田信虎に家臣や領民が凄まじい怨恨を抱いていたと思われます。
殿様を入れ替えても天災は治まらない。
そう言われたところで、彼らの感情が納得しなければ意味のないこと。
当時の民衆は、決して虐げられるだけの弱い存在でもありませんでした。
要は、下々からの根強い支持(要求)があって、信玄への代替わりが行われた可能性があるのですね。
当時は、代替わりに伴う徳政令(借金チャラ)も珍しくはなく、例えば武田信玄と関わりの深い北条氏康においても同様の現象が見られます。

北条氏康/wikipediaより引用
そして信虎が本当に極悪非道ならば、野垂れ死をしていてもおかしくないところですが、実際はそんなことありませんでした。
今川氏、そして我が子・信玄の援助を受け、それなりに安定した生活を送っております。
駿河今川家には「駿河武田衆」が所領を持っていた形跡も……。
孫の勝頼と対面叶うが甲府へ戻れず
武田信虎の余生は、ほぼ京都暮らしで、足利義輝や足利義昭に出仕し、公家と交流していました。
娘の一人は菊亭晴季に嫁がせており、婚約が決まっただけで婿殿の顔を見ると押しかけたこともあります。
これはあまりに気が早く厚かましい振る舞いとして、京雀たちが狂歌を詠んで笑えるゴシップネタとして楽しんだほど。
こんな無作法さが話題になった武田信虎ではありますが、教養がないわけではありません。文人として和歌を詠み、堂々たる技量を披露しております。
いわば、武田氏の外交官としての役割を担っていたのです。
こうした様子から窺えるのは、暴君どころか、むしろ洗練されていてスマートな姿。
義昭が信長包囲網を画策すると、信虎も武田氏の窓口として参加しております。

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用
天正元年(1573年)には、近江国甲賀に潜入した形跡も確認できるのです。
そんな信虎が京都から脱出したのは、織田信長が義昭への反攻へと転じた際に、身の危険を感じてのことでした。
そして天正2年(1574年)、高遠城で信虎は嫡孫・勝頼との対面を果たします。
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信玄との間に和解は成立していたとはいえ、それはあくまで表向きのこと。信虎は己を追放した家臣に怒りをぶつけたため勝頼としても困り果てました。
勝頼が、そんな祖父の激怒を警戒したためか。
信虎は自らが築いた甲府へ戻ることはできませんでした。勝頼との対面からほどなくして、没したのです。
享年は81とも、77ともされています。信玄よりも長く、当時としてはかなりの長寿でした。
お墓は、大泉寺にあります。
なぜ信虎は暗君とされたか?
ここまで辿り、どんな印象をもたれるでしょう?
信虎といえば我が子(信玄)をいじめ、逆に追放される暴君・毒親だと思えていたのに、そうではなかった。
他ならぬ地元の甲府が再評価し、映画化する流れも理解できるというものです。
信虎は名君だった。
と、そこで終わらせてもよいところですが、どうしたって考えたいところはあります。
一体あの暴君像は何だったのか?
その像には、後世の人間も悩んだからこそ、無茶苦茶な理由が捏造された形跡がみてとれます。
◆妊婦を殺す、好色、文化財破壊等は何だったんだ?
面白半分で妊婦を殺すという暴君伝説は、ありがちなものです。
戦国時代だけでも豊臣秀次から大宝寺義氏までテンプレとなった感もあり、元ネタを辿れば殷の紂王あたりに到達する話です。
武田信虎についても同様のシーンがフィクションで用いられますが、「テンプレだよね」でそろそろ終了としたいですね。
家臣を手討ちにするエピソードも、暴君のテンプレです。
◆晴信をいじめ、弟を寵愛した
これもテンプレという印象ですね。
織田信長にせよ、伊達政宗にせよ、似たような話がありました。
こうした逸話から考察できるのは【当時から不可解なクーデターであった】という事情です。
甲府から地理的には離れているものの、私はある人物の話と似ていると感じました。
大宝寺義氏です。
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大宝寺義氏の生涯|悪屋方と呼ばれ嫌われた戦国武将 最期は皆に裏切られ
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大宝寺義氏の場合、知名度が低いだけに軍記やフィクションでの潤色が武田信虎ほどではありません。
しかも、鮭延秀綱の聞き取りが残されているため、生々しい戦国武士の事情がわかりやすい。
秀綱は淡々と、義氏がどれだけ家臣から憎まれていたか、かつその理由が後世からするとシンプルなものであるか、語り残しているのです。
リアルな戦国武士の心情を踏まえつつ、両者を比較してみましょう。
◆戦乱を繰り返した
領土確立のためとはいえ、激しい戦乱を繰り返しており、税の負担は大きなものとなりました。そこへの不満はあったことでしょう。
武田信虎、信玄、勝頼、実は三代にわたり、この傾向はあるのです。
それでも信玄だけが名君とされるのであれば、そこにはバイアスがあります。
◆インフラ整備に努力した
大宝寺義氏は、現在に至るまで残る地名「庄内」を築き上げようと努力しました。
信虎の場合は前述の甲府整備です。
偉業ではありますがこれまた負担は大きいもの。恨みと紙一重なのです。
◆農業生産性の問題
大宝寺領は荒れ果てており、生産性が極めて低い土地でした。
甲斐も前述の通り、痩せていてかつ火山噴火や地震が多い大変な場所です。そういう貧しい土地で戦乱をされると、負担が大きくなります。
◆後任者が民の生活を楽にした
大宝寺義氏の後、庄内を治めた最上義光は内政手腕に長けており、経済利益と農業生産性向上をもたらしました。
信虎の後の信玄は、他国に侵攻しながら経済効果も発揮する手腕を発揮し、民の暮らしを豊かにしたのです。
こうなりますと、後世の人間は因果関係を逆転します。
「豊かなあの殿様を迎えるために、悪逆の殿様を追い払ったのである!」
新たな殿様を迎えた時点では、人々がどうなるか予測できたはずもありません。それでも、バイアスはかかるのです。
★
信虎の人生と評価は、実に興味深いものがあります。
古今東西、実のところ全盛期を築いた名君が、素晴らしい人物であるとは言えません。
ブルボン朝のルイ14世。
清の乾隆帝。
ただ時代が良かっただけではないだろうか? そう思える人物はいるのです。
その前後の君主が割りを食った評価になることも、これもよくあること。武田三代が評価される結果、信玄の評価は相対的に下がるような気もします。
けれども、これぞ歴史を学ぶ醍醐味であるとは思えませんか。
人が時代を作るのか?
時代が人を作るのか?
そう考えてこそ、歴史から学ぶということであるはずです。
信虎の活躍が描かれた書物を読み解き、これから日の目を見るときを期待して待ちましょう。
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【参考文献】
平山優『武田信虎 (中世武士選書42)』(→amazon)
平山優『信虎・信玄・勝頼 武田三代』(→amazon)
高野賢彦『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon)
『国史大辞典』
他










