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【武田信虎】
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今川と手を結んでさらに躍進 次は信濃へ
幾度か甲斐へ攻め込み、武田氏の宿敵となっていた今川氏。
天文5年(1536年)、その今川氏で大騒動が巻き起こります。
今川氏輝が若くして急死すると、家督継承を巡って【花倉の乱】が勃発したのです。
勝利をおさめたのは栴岳承芳こと後の今川義元。
このとき義元は武田に援助を求めており、これを契機に両国の間で同盟が成立するのです。
戦国大名・今川義元 “海道一の弓取り”と呼ばれる名門 武士の実力とは?
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この同盟は、武田にとって大きな影響をもたらし、それは嫡男・晴信の正室にも見て取れます。
信玄の正室である三条夫人は京都・三条公頼の娘です。
三条夫人(武田信玄の正室)は本当に高慢ちきな公家の姫だったのか?
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この縁談の背後には、今川義元の母・寿桂尼がいたのです。
もともと彼女は公家の出身であり、京都の人脈がありました。
寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった
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今川氏と同盟を結ぶことによりさらに足場を固めた武田信虎は、新たに目標を定めます。
信濃攻略です。
まずは南信濃の諏訪氏と戦い、手を結ぶと、小県へ侵攻を始めるのですが、ここには滋野一族がおりました。
彼らと激突したのが天文10年(1541年)の【海野平の戦い】。
滋野一族とは何者か?
信玄の快進撃を支えた真田幸綱(幸隆)子の昌幸や孫の幸村へ繋げた生涯62年
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そうです。
あの真田一族です。
突然のクーデターで帰還を果たせず
この【海野平の戦い】を制した武田信虎。
絶好調!
向かうところ敵なし!
と言いたいところですが、思わぬ事態が起こります。
天文10年(1541年)のことです。
小県郡から戻った信虎は、少数の供回りを引き連れ、今川義元を表敬訪問しました。
娘であり信玄の姉でもある定恵院が義元に嫁いでおりますから、優しい父親の一面が垣間見える、そんな旅行でした。
ところが、です。
いざ甲斐へ帰還しようとすると入れない。
重臣たちが晴信(のちの信玄)を擁立し、入国を拒否するという異常事態に陥ったのです。
当時、武田信虎の歳は44とも48とも。晴信は21でした。
板垣信方が「好機である」と持ちかけ、甘利虎泰、飯富虎昌らを説得してのクーデターであります。
ただし、甘利虎泰は乗り気ではありませんでした。
いくらなんでも主君追放とはどうなのか……そんな迷いがあったわけですが、一方でそうせざるを得ない国内状況であったとも言えます。
実は、このクーデター当時、甲斐では軍事面以外での大激変が起こっていました。
信虎追放は民衆や国衆からの支持もあった?
天文9年(1540年)、甲斐と信濃は大災害に見舞われておりました。
不作、大雨、巨大台風――そんな大災害が頻発していたのですが、その最中も合戦を続ける武田信虎に家臣や領民が凄まじい怨恨を抱いていたと思われます。
殿様を入れ替えても天災は治まらない。
そう言われたところで、彼らの感情が納得しなければ意味のないこと。
当時の民衆は、決して虐げられるだけの弱い存在でもありませんでした。
戦国時代の百姓はしたたかで狡猾?領主を巻き込み村同士の合戦も起きていた
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要は、下々からの根強い支持(要求)があって、信玄への代替わりが行われた可能性があるのですね。
当時は、代替わりに伴う徳政令(借金チャラ)も珍しくはなく、例えば武田信玄と関わりの深い北条氏康においても同様の現象が見られます。
北条氏康は信玄や謙信と渡りあった名将也~関東を制した相模の獅子 57年の生涯
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そして信虎が本当に極悪非道ならば、野垂れ死をしていてもおかしくないところですが、実際はそんなことありませんでした。
今川氏、そして我が子・信玄の援助を受け、それなりに安定した生活を送っております。
駿河今川家には「駿河武田衆」が所領を持っていた形跡も……。
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