武田勝頼

武田勝頼/wikipediaより引用

武田・上杉家

武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年

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膠着する武田・徳川・織田

勝頼の前に、課題は山積みです。

同盟者相手に「自分が頼りになるところを見せなければならない」ことを痛感。そのためにも、まずは徳川家康の三河制覇を目指します。

しかしここで、信長が動き始めます。

信長も武田の強さは知っておりますし、織田家には他に多くの敵がおります。そうやすやすと動けるものでもありません。

それでも、腰を上げた。

そう。
天正3年(1575年)における【長篠の戦い】です。

結果的に織田・徳川連合軍が大勝利をおさめるこの一戦。

あまりに劇的な勝利だったため【そこには何か特別な秘密があったはずだ】と、長いこと考えられてきました。

例えば「信長の鉄砲三段撃ち」なんかはその一つ。現代では否定されているこのような話がまかり通ったのはなぜなのか。

次ページにて冷静に考えてみたいと思います。

 

伝説から離れてあの戦いを考えてみる

こうした派手な伝説は、史実だったのか?

いや、どうも、そうではないと近年論じらるようになりました。

長篠の戦い当時の武田軍ならびに織田軍に注目してみますと……。

・武田家では騎馬兵を重視し、鉄砲を軽んじていた

その確証は得られません。

鉄砲の配備が記録に残っています。

・武田騎馬軍団

東日本では西日本と比較して、馬に乗った戦術が重視されていた点は重要。

馬防柵は存在しましたし、鉄砲隊を崩すのに騎馬が使われることもありました。

ただし、西洋の騎兵のような、乗馬したまま団体で突撃する戦法であったとは考えにくい。

・織田勢における兵農分離

→確証はありません。

たった一人の革新的天才が、戦争を変えた――そんな伝説は非常に魅力があります。

例えば孫子や、ズールー族のシャカもそうでしょう。

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あるいは幕末の日本ではナポレオン戦争の歴史を学び始め、西洋の戦術に衝撃を受けました。

「フランスのナポレオンに学ぼう!」と讃えられ、しかし、普仏戦争後は「プロイセンに学べ」となったわけです。

そんな中で、日清戦争日露戦争を経て、日本人は自信を持ち始めたわけですが、そうなると日本の歴史においても、フリードリヒ大王やナポレオン、ウェリントン公のような英雄がいたはずだ!と思い始めます。

むろんそうした過去へのリスペクトは結構なことかと思います。

例えば、最上義光顕彰を見てみますと、

「国民に尚武の気風が貧弱であるうちは、到底列強各国との競争に対峙することなどできない。

であるからして、英雄崇拝が日本の国民性として意義があることは否定できない。

我等が山形中興の最上義光公は、この意味において最も崇拝すべきグレートマンであると同時に、山形市が今日において東北地方の一都市として雄を競うにたるのも、義光公の遺徳であるのは、言うまでもないことである」

なんだか、すごい理屈で褒められています。

こうした現象の問題は、一度の顕彰で終わらないことです。

「我々の祖先たる戦国大名も、何かすごい戦術や改革をしていたはず!」

そんな後世の願望が強すぎて、西洋寄りの戦術と混同するような傾向が見られるようになるのです。

戦前の軍参謀本部の分析が、その典型例でしょう。

その影響は、現在も払拭されたとは言えません。

織田信長とエリザベス1世下の英国軍はどちらが強いのか?」というような記事も時折見かけますが、海軍力が強みだったイギリスと、そうではない日本とでは、比較のしようがありません。

フェリペ2世と豊臣秀吉の対決ならば、まんざらifとしてありえないわけでもありませんが……。

ともあれ、ファンタジックな過大評価は、あくまでゲームや漫画にとどめておかねればなりません。

伊達政宗の「騎馬鉄砲隊」も、そうした一例でしたね。

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この手の背伸びした歴史はさておき、誇張のない「長篠の戦い」を考えてみますと、地盤による差はあるものの、軍隊の編成が大きくとなっていたわけでもありません。

ではなぜ、ここまで大きな勝敗の差がついたのか。

 

「長篠の戦い」

結論から申しますと、この戦いの決定打はまだはっきりとしておりません。

しかし、一定の要素は認められている。

・織田徳川連合軍は柵の内側に立てこもり、実際よりも兵を少なく、士気が低いように偽装していた

・若い勝頼は、経験豊富な宿老の懸念を押し切って主戦論に傾いていた。とはいえ、当時30歳という年齢が、そこまで若いかどうか、判断がつきかねる

・徳川勢(酒井忠次ら)が武田勢の背後をつき、退路を絶っていた

こうした要素はあります。

とはいえ、誇張もあるのです。

・戦いは数刻に及んでいて、あっという間に勝利したとは言えない

・徳川勢が乗馬しなかったという記録はあるが、そこまで編成が異なっていたという証拠とも言いかねる

冷静かつ慎重に考えれば考えるほど、決定打はわからなくなります。

長篠の戦い(設楽原)に設置された馬防柵

だからこそでしょうか。

後世の記録は誇張が増え、ますますわかりにくくなっています。

膨大な戦死者がいたことははっきりしています。

ただ、実数や損耗率は不明。これは戦国時代の合戦ではままあることでした。

いかんせん両軍の規模は莫大です。万単位であることは容易に推定。単に推定ではなく、確定した損害もあります。

以下は、この戦いで敗死した、名だたる家臣や将たちです。

【甲斐】
土屋昌続
武田信実
甘利信康
米倉丹後守

【信濃】
馬場信春
市川昌房
香坂源五郎
望月信永

【上野原・西上野】
内藤昌秀
真田信綱
真田昌輝
安中景繁
和田業繁

【駿河】
山県昌景
原昌胤
土屋貞綱

【足軽大将】
三枝昌貞
横田康景
山本管助(二代目)

戦争の結果とは、死者数だけでは判断できません。

【将・指揮官の死】に注目してみますと、この戦いの被害がいかに甚大だったかご理解できるはず。

例えばナポレオン第一帝制における斜陽は、1809年とされることが多いですが、この年、帝国元帥の一人であり、勇者と名高いジャン・ランヌ元帥が「アスペルン・エスリンクの戦い」において戦死しておりました。

元帥は、軍制における華であり、頂点の象徴が失われるということ。

それは制度崩壊に直結するとみなされます。

日露戦争でも、日本は辛勝していながら前線に立っていた下士官クラスの損害は膨大なものでした。

これはのちに日本軍にも暗い影を落とすことに繋がっていきます。

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第一次世界大戦におけるイギリス軍では、士官となった貴族子弟が多数犠牲になりました。

結果、貴族制度が大変革を迎えているほどです。

 

こうしたケースを踏まえて「長篠の戦い」死傷者の内訳を確認してみますと、武田は士官にあたる将の死傷があまりに膨大でした。

【兵士の死以上に、士官や将の死の場合は制度の疲弊や崩壊を招きかねない】

「長篠の合戦」における経過や勝因の決定打は不明です。

はっきりとわかっていることは、これが武田家の柱石をなぎ倒した――もはや引き返せぬ大敗北であったことは確実。

そしてその余波は、同盟相手にも及びました。

織田勢は武田についた岩村城を攻め立てます。

敗戦から回復できていない武田家の援軍は、年少者や還俗させた僧侶によるもので、頼りにならないものでした。

岩村城跡

武田についていた岩村城の城主であったおつやの方は敗北し、甥である信長によって処刑されています。

そしてこの一件は、単なる一つの悲劇では済みませんでした。

戦国大名の働きとは、同盟相手の保護にあります。

味方を守る力がなければ仲間内から見限られ、その信頼は簡単には回復できないものです。

勝頼当主の武田家は、信玄の服喪が終わった三年目にして、亀裂が生じておりました。

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