信玄の息子たち

左から武田勝頼・仁科盛信・武田信玄/wikipediaより引用

武田・上杉家

信玄には勝頼以外どんな息子がいた? 僧侶や勇将にもなった信玄の七男子

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仁科盛信

母は油川夫人。弘治3年(1557年)頃に生まれたとされます。

長野県歌「信濃の国」5番では、長野県の誇る著名人が挙げられますが、ここに木曾義仲、佐久間象山らと並び称されているのが仁科盛信です。

もとは晴清であった彼は、永禄4年(1561年)、父・信玄の意向で仁科氏の名跡を継ぎました。

かくして武田晴清から仁科盛信となったのです。

仁科盛信/wikipediaより引用

仁科氏は、信濃国安曇郡仁科荘の国衆でした。

盛信は智勇兼備の名将で仁科をよく統治し、兄の勝頼も重要視していたほど。

実際、その働きは、天正10年(1582年)に織田・徳川勢が武田攻めを開始したときに顕著となります。

信玄の娘婿である木曾義昌はじめ、これまで武田を支えてきた家臣たちが次々に主家を裏切ってゆく中、要となる高遠城の仁科盛信は兵と共に守りを固めました。

高遠城は、織田信長の嫡男であり、家督を譲られていた織田信忠が大軍で包囲。

信忠の胸には苦い思いもあったかもしれません。この城には、かつて信忠の許嫁であった信玄の娘・松姫もいたのです。

盛信は侍女をつけ、彼女を城から落ち延びさせます。

やがて信忠から、降伏すれば恩賞を与えるという誘いが送られてきました。重臣を集め、その意見を聞くと、主従の意見は一致します。

御館様(勝頼)からは籠城せよと命じられている。

武田の武名のためにも、戦うべし――。

そして、使者としてやってきた僧の両耳と鼻をそぎ落とし、降伏せずという返書を懐に押し込むと、城門から送り出したのでした。

血まみれの顔で戻った僧をみて、信忠はもはやこれまでと決意を固めます。

圧倒的少数でありながらも、城兵は奮闘します。

城を枕に将兵が討ち死にを遂げてゆく中、もはやこれまでと悟った仁科盛信は腹を切り果てました。

彼の首級は、織田方に送られ晒されたものの、胴体は丁寧に葬られます。

そんな勇将の姿を敬愛し、信濃の人々はその後も仁科盛信の供養を続けました。長野県歌の歌詞にも登場するのは、そうした働きがあったからです。

信玄の子として、後世まで勇名を残した人物でした。

 


葛山信貞

母は油川夫人。

兄・仁科盛信と同じく、信玄の子に名跡を継がせることで支配盤石とするため、葛山氏元の娘婿となり、葛山氏を継ぎました。

葛山領を継いだ際はまだ若年であったとされます。

天正10年(1582年)、織田・徳川勢の武田攻めにより、信貞は甲斐善光寺で自刃を遂げ、葛山氏は滅びました。

 


武田信清

母は禰津御料人。

永禄3年(1560年)から永禄6年(1563年)あたりに生まれたとされます。

男子が多い家は、家督争いを防ぐため出家させることがしばしばあり、信清も永禄10年(1567年)、父・信玄の意向で幼いうちから法善寺に入ります。

法名は玄竜……でしたが、武田家を強化するためか、兄の勝頼によって還俗させられ、甲斐源氏・安田氏の名跡を継承。

そして安田信清として、海野城主となったのです。

天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍が押し寄せる中、兄たちは命を散らしてゆきました。

しかしまだ二十歳そこそこの信清は、わずかな供回りと共に高野山を目指して落ち延び、そのまま息を潜めながら暮らしてましたが、その数ヵ月後、事態は急変します。

本能寺の変】で織田信長が討たれたのです。

信長の死により追及の手が緩むと、信清は姉である上杉景勝室・菊姫を頼り、越後へ。

3000石で召し抱えられると、そのまま会津~米沢へとついてゆきます。信清は姉への敬愛を忘れず、彼女が病に倒れた際には、息を引き取るまで枕元で看病を続けたと伝わります。

上杉家が【関ヶ原の戦い】に敗れると、同藩は会津から米沢に転封されました。

その際、石高は大幅に削減され、藩財政が深刻すぎる大打撃を受けると、信清も会津時代の3300石から1000石にまで減らされます。

そして寛永19年(1642年)、喜寿を超える大往生を遂げました。

武田信玄の男子で唯一天寿を全うした信清は、父の敵・上杉の菩提寺・林泉寺に葬られたのでした。

このあと嗣子がなく家が途絶えそうになった危機もありましたが、米沢藩の庇護により、幕末まで存続しています。

信玄の末子由来の名跡を、上杉家は守り抜いたのでした。

信玄は正室との間に3人の男子がいたものの、そのうち2人が家督を継ぐことができませんでした。

義信という嫡男を失ったことは武田家にとって痛恨事であったといえます。

四男でありながら家督を継いだ勝頼は、弟たちと同じく、本来は他家の名跡を継ぐことにより、支配を盤石とする役目を背負わされていました。

それが崩れたことが武田家を揺るがした一因といえるでしょう。

今では武田家滅亡について、勝頼の責任を問うことよりも、信玄の外交はじめ政策の見直しが進んでいます。

さしもの名将も、見通せぬことはあったはずです。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon

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