そう問われて「景勝!」と即答される方はかなりの少数派でしょう。
誰だって「謙信」が真っ先に浮かんでしまうものであり、実際、それだけの戦歴を残してきたのも事実です。
しかし、本稿で注目する上杉景勝も、かなり優秀な戦国大名ではないでしょうか。
織田をはじめ、武田や北条、最上、伊達を相手に激戦を繰り返し、一時は120万石という大大名へ成長。
関ヶ原では敗者に落ち、30万石に大減封されますが、それでも米沢藩として家名を残しています。
1623年4月19日(元和9年3月20日)はその命日。
上杉景勝の生涯を振り返ってみましょう。
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上杉景勝 謙信の「政敵」家系に生まれる
上杉景勝は、前述の通り弘治元年(1555年)11月27日、長尾政景の次男として生まれました。
政景は上田長尾氏の当主。
母は上杉謙信の姉として知られる仙桃院であり、出自からして上杉家中でもかなりの地位だったことがわかります。
実際、上田長尾氏は、謙信の出た府内長尾氏に次ぐ勢力であるとされ、政景は坂戸城を拠点に実権を握っていたといいます。
坂戸城は越後でも南に位置しており上野に対する需要拠点ともなりますね。
しかし、府内・上田の両家は最悪の関係に近いものでした。
府内長尾氏
vs
上田長尾氏
政景はもちろん、彼の父である長尾房長の時代から、形式上は府内長尾氏に服従を誓っているものの、隙あらば反逆というスタンス。
実際、謙信が、兄・晴景から19歳で家督を継ぐと、政景は「今だ!」と言わんばかりに反旗を翻し、武力行使にまで出てしまう有様です。
当然、謙信も戦国大名としてこれを捨て置くことはできません。
すぐに自ら征伐に乗り出すと、その決意を悟った政景は即座に「すみません!」と全面降伏。
普通に考えれば、謙信に滅ぼされる場面ですが、許されています。
政景の妻が謙信の実姉・仙桃院であり、彼女の嘆き悲しむ姿を見てとどめを刺さなかった――という話が伝わっています。
こうした美談はなかなか怪しいもので、個人的には謙信がそこまで感情論で動くとは思えません
政景を処断し、上田長尾氏の勢力を敵に回すか。
政景を許し、なだめすかしながら重臣として扱うか。
両者を比較し、政策的な判断で導き出された結果ではないでしょうか。
事実、謙信はこの一件の後、政景を警戒しながらも重用しています。
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こうした状況下で、政敵ともいえる政景の息子として成長していったのが上杉景勝でした。
幼少期からトラブルの香りが漂っており、後年の苦労はもはや宿命だったのでしょう。
父の不審死をきっかけに上杉の後継者候補へ
兄は既に他界しており、上杉景勝は実質的に政景の後継者として育てられました。
しかし、彼が10歳の頃、一族を揺るがす大事件が起こります。
永禄7年(1564年)7月4日のことです。
当日、政景は残暑を避けるべく、琵琶島城主の宇佐美定満を招き、野尻池で舟遊びをしていました。
大いに酒を飲み、ドンチャン騒ぎを楽しんだのでしょう。
二人して池に飛び込んでしまいます。
「酔っ払いの水泳」ですから、すでにピンと来られた方もいるでしょうか。
そう、二人は水から上がってくることなく、そのまま溺死してしまったのです。
この不審死については、さまざまな見解が残されています。
例えば『上杉家御年譜』という史料では、彼らのほかに4人の近臣も亡くなったとし、『国分威胤見聞録』という史料では、溺死した政景に切傷の跡があったと書き残されています。
政景の死は、事故なのか、暗殺なのか。
真相は不明ながら、少なくとも謙信にとっては政敵が消えるという明るいニュースでした。
そして、その後さまざまな「上田長尾氏の弱体化策」を講じ、最終的には坂戸城に直臣を入れて統率し、景勝を本拠・春日山城に引き取ったのです。
謙信にとってこの一件は「上田長尾氏の本拠と後継ぎを手中に収め、彼らを従えた」ことを意味しました。
景勝も非常に可愛がられ、習字の手ほどきを授けた程だったとか。
そして天正3年(1575年)、謙信は景勝を正式な養子とし、上杉の姓を与えて有力な後継者候補に位置づけたのです。
御館の乱 始まる
「政敵の息子」から「有力な後継者候補」へ。
一転してジャンプアップした上杉景勝には、後継者の席を巡って、強力なライバルがいました。
上杉景虎です。
景勝と同じく謙信の養子として位置づけられた景虎は、もともと北条氏康の七男であり、上杉氏と北条氏の講和に際して人質として上杉家へやってきました。
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問題は、謙信がこの景虎を大いに気に入ったことでしょう。
北条氏からの人質ながら正式に上杉家の養子となり、少なくとも関東管領の職を継がせてOKという意図があったとされています。
そして、その日は突然やってきました。
天正6年(1578年)3月13日、謙信が急死したのです。
謙信には実子が無く、残されたのは二人の養子。
景虎と景勝――どちらが後継者となるか。
謙信が明確に指示することなく亡くなってしまったため、上杉家だけでなく周辺勢力も巻き込んだ一大お家騒動【御館の乱】に発展してしまいます。
先に動いたのは景勝でした。
謙信の死を知るや「義父の遺言」と称して、春日山城の本丸を占拠。
朦朧としている謙信に対し、重臣・直江景綱の妻が「家督を継ぐのは景勝か?」と問いかけ、謙信が頷いたことを遺言としています。
真偽の程は……かなりアヤシイですよね。
なんせ、この御館の乱は、ここから約1年も続きます。
「◯◯の乱」というと激しい戦闘をイメージするかもしれませんが、実際はもっとスローテンポでした。
「家督の譲渡自体は平和的に行われた」という指摘もあるほどで、争いが過熱化するのは、上杉家全体と周辺勢力に謙信の死が伝わってから。
家臣団の分裂や外交合戦が本格化し、景勝と景虎のどちらが勝っても、国力の低下は避けがたい状況でした。
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