上杉景勝

上杉景勝/wikipediaより引用

武田・上杉家

謙信の跡を継いだ上杉景勝の実力とは?幾度も滅亡の危機にさらされた69年の生涯

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上杉景勝
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優位だったのは北条武田を味方にした景虎勢

元々は上杉憲政の居館として建てられ、後に春日山城下で政庁として使用されていた「御館」。

平城ともいえる強固な拠点です。

そこで景虎は上杉家古参の家臣団を取り込み、さらには実家である北条氏や、その同盟国である武田氏などを味方としました。

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当初の情勢は景虎が圧倒的優位だったのです。

景勝
vs
景虎(北条・武田)

春日山城で孤立してしまった上杉景勝には、常識的に考えて勝ち目はありませんでした。

だからといって簡単に諦めるわけもなく、ここで方針を転換。

景虎サイドの強力な援軍だった武田氏との関係構築にシフトします。

要は、武田勝頼を自軍へ寝返りさせようと試みるもので、隙は十分にありました。

勝頼は、景虎への援軍を一向に出さない北条氏に不信感を抱いていたばかりか、長篠の戦いなど度重なる合戦での軍事費に苦しんでおり、景勝の提示した金銭に心を揺さぶられたのです。

かといって、武田にしても、いきなり景勝支持となり、景虎や北条を敵に回すわけにもいきません。

そこで勝頼が選んだのが“和睦”という折衷案でした。

景勝と景虎の両陣営に対し、和睦を斡旋し、強引に成立させたのです。

景勝

和睦案(武田)

景虎(北条)

しかしそんな折、徳川家康の攻撃を受け、武田にしても軍を引き上げざるを得なくなり、和睦もすぐに決裂。

このタイミングで、北条氏も北条氏照に出陣を命じ、景勝方の拠点である坂戸城に攻め寄せ、景勝は籠城を強いられます。

同時期の景勝は「武田との同盟が成立した!」と大袈裟に喧伝はしていたものの、実質、孤立化していたのです。

景勝
vs
景虎(北条氏照が坂戸城を攻撃)

徳川に攻められた武田は越後から戦線離脱

事態が二転三転してピンチを迎えた景勝。

天は、その景勝に味方しました。

季節が冬を迎えつつあったのです。

豪雪地帯の越後エリアで、いったん雪が降り始めれば、今度は攻め込んだ北条氏が退路を断たれ、孤立します。

仕方なく北条軍は10月になると一部の兵を残して関東へ引き上げ、次は雪解けを待って再侵攻に賭けるしか術はありません。

これまで耐え忍んできた景勝にとって、まさに千載一遇のチャンスとなったのでした。

 


御館の乱後も家中の争い止まず

戦局は、景勝vs景虎の直接対決へ。

本格的な冬を迎え、北条の援軍も期待できない景虎軍は、やがて御館で孤立します。

そして年が明けた天正7年(1579年)、上杉景勝は自らが出陣して士気を高め、将兵不足の景虎軍にとって救世主とも言えた北条景広(きたじょうかげひろ)を討ち取ります。

もはや景勝の絶対的優位は確立されたと見てもよいでしょう。

周辺の支城をことごとく奪還し、最後は総攻撃によって御館を陥落。

和議を申し入れようとした上杉憲政や、景虎の子・道満丸も斬殺しています。

追い込まれた景虎は、関東で再起を図るべく堀江宗親が守る鮫ヶ尾城に入りましたが、時既に遅し。景勝に先手を打たれており、自害となりました。

それが天正7年(1579年)3月17日のこと。

謙信が亡くなったのが天正6年(1578年)3月13日ですから、丸々一年、内紛に費やされたことになりますね。

戦乱はようやく一区切りとなり、景勝は景虎方の残党を処理して戦いを終結させました。

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戦後、景勝はこの機会を利用して、直臣である上田衆の地位を向上させ、常に彼らを悩ませてきた強力な国衆の力を弱体化させていこうとしました。

また、自身の側近として「愛一文字」でお馴染みの直江兼続を取りたて、中央集権化による権力の集中を試みます。

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しかし……。

越後国内は、とても平和とは言えませんでした。

旧来の家臣たちはこの処遇を快く受け入れられません。

特に不満が大きかったのは、御館の乱で活躍するも、恩賞を与えられなかった新発田重家など。

新発田重家/wikipediaより引用

彼らは源頼朝の挙兵に従った佐々木盛綱を祖としており、あくまで関東管領の上杉氏に従う勢力でした。

新発田氏は、謙信が関東管領の職を引き継いだことで越後長尾氏に仕えたものの、譜代の家臣とはいえない続柄です。

要は、生存戦略として上杉氏に仕えていただけで、その保証が揺らげば、反旗を翻すのも当然でしょう。

しかも、この反乱は上杉家の存亡危機へと発展します。

なぜなら新発田氏の背後には、織田信長がいたのです。

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新発田重家の乱 背後に信長

実は、御館の乱が勃発する裏で、織田信長は着々と上杉領内への侵入を進めていました。

越後攻略の足がかりとして越中に兵を進め、主に信長と柴田勝家の手で攻略作戦を開始。

荒木村重の反乱もあり、一時的に危機は去っていましたが、越中の有力武将・河田長親が病死すると、織田軍は攻勢圧力を強めていきます。

そんな織田家の先にあったのが「敵の敵は味方」理論で結ばれた新発田重家でした。

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かくして【新発田重家の乱】が始まります。

景勝の家臣である竹俣慶綱の領土を重家が横領すると、御館の乱で疲弊した上杉家には、その攻撃をしのぐ体力がありません。

しかも、家臣同士の揉め事も絶えず、春日山城で景勝の側近二人が斬り殺される事件が起きます。

家中はまさにバラバラ。

景勝はまたもや追い込まれていきました。

その苦しさが垣間見える記録も残されています。

家臣たちが「今日までなんとか城を守ってきましたが、もはや滅亡の覚悟はできました」と語れば、景勝自身も佐竹義重に送った書状で、以下のように悲壮な覚悟を表しています。

「私は良い時代に生まれました。六十余りの州を越後一国で相ささえて滅亡すれば、死後の思い出にもなりましょう」

周囲の状況も絶望的でした。

天正10年(1582年)3月、あの強力なライバルだった武田氏(武田勝頼)が呆気なく織田家に滅ぼされてしまったのです。

これでは景勝が悲観的になるのもやむを得ないでしょう。

武田に続いて上杉も……。

と、迎えた天正10年6月2日、上杉家にとっては奇跡が起きます。

本能寺の変、勃発。

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ご存知のように織田信長が、重臣・明智光秀に攻められ敗死。

上杉領に進出していた織田軍も景勝と戦っている場合ではなくなり、兵を退いていきます。

結果、孤立した新発田重家を討ち取ろうと景勝も兵を挙げますが、裏で糸を引く蘆名氏の支援や、新発田勢の粘り強い抵抗があり、勝負を決めきられませんでした。

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-武田・上杉家

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