第一次川中島の戦い

長野市八幡原史跡公園にある信玄と謙信の一騎討像

武田・上杉家

第一次川中島の戦い ポイントは塩田城~信玄も謙信も城を中心に動いている

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葛尾城と荒砥城を落としたら

では、話を進めましょう。

武田信玄が初めて北信濃にやって来た時、一体どのような一手、つまり橋頭堡を築こうとしたのか?

実は信玄は、橋頭堡を築いてはおりません。

「おい! いきなり話が違うじゃねえか! 信玄の城の話じゃないんかよ!」と罵倒されても無いものは出てきません。

橋頭堡は一度築けば何が何でも死守が基本。

コストもかかるし、良くも悪くも精神的な支柱にもなるため、おいそれとはスクラップアンドビルドできません。

1553年に始まった第一次川中島の戦いで信玄は、そのような形跡がないほどあっさりと兵を引いています。

謙信との直接対決は行っていないんですね。

ということで、ここはもう少し戦いの経緯を見ていきましょう。

信玄は、「葛尾城」に籠もる村上義清を猛攻の末、越後に追いやった後、葛尾城の支城「荒砥城」にも猛攻を加えて落城させます。

葛尾城と荒砥城は川中島のかなり南にあり、以下の地図でいえば中央に2つ並んでいる赤い拠点です。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141116-3

こちらの地図では中央に位置する葛尾城と荒砥城・川中島から離れている/©2014Google,ZENRIN

ここを猛攻――つまり力任せによる城攻めでした。

※武田流の城攻めの一つに「放火」「焼き討ち」という言葉そのまんまの攻城戦術があります

城を攻めるときのセオリーは、敵の後詰め(救援)が来ないと判断したら「守備側の士気は低い! 一気に叩け!」となります。

基本的に、莫大な兵力と物資が必要となる城攻めは、兵数が城方よりも圧倒的に勝っているなどの勝算がないと行えません。

ましてや武田信玄のような慎重派なら尚更です。

では葛尾城の場合はどうだった?

後詰めの上杉謙信が間に合わないと判断したのか。

あるいは謙信のやってくる予定日を逆算して計画的に猛攻したのか。

信玄がいかなる判断をしたかは不明ですが、結果的に謙信の救援は間に合わず、武田が葛尾城を攻め落とし、村上義清は越後に逃げて行きました。

ちなみにこの「荒砥城」は現在「城山史跡公園」として整備され、中世の城郭を忠実かつマニアックに再現。

城マニアの妄想が具現化されたような公園になっていて、オススメです。

 


義清に再び城を取られて

信玄はその後、善光寺平への侵入を試みます。

が、電光石火でやってきた上杉勢に「更級・八幡」の地で敗れます。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141116-44

更級・八幡の戦い 武田_勢進軍ルート/©2014Google,ZENRIN

上記の地図で見ますと、青い進軍経路で北上し、緑のポイント「更科八幡の戦い」で敗北するのです。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141116-5

謙信登場!

用心深い信玄のことです。

小競り合い程度の戦いで、善光寺のはるか南の地での敗戦ということもあり、この時点で本気で善光寺平まで一気に侵攻しようと考えていなかったのかもしれません。

じっくりと時間をかけ、善光寺平の国人衆たちを調略しながら兵を進めるつもりだったのでしょう。

結果、先ほど勝ち取った葛尾城と荒砥城は上杉勢に奪われて再度、村上義清が入城しました。

以上が、武田と上杉、最初の戦いの経緯です。

川中島の「か」の字も出てきませんね。

平野での小競り合いはあったものの、あくまで主戦は攻城戦です。

しかし信玄は、橋頭堡を確保するどころか、この地域からあっさりと兵を引いています。川中島での決戦などは意識せず、相手の力量を推し量る威力偵察に近いでしょう。

むろん、これだけでは終わりません。

 


塩田城を押さえて兵站OK 後は攻めるだけかと思ったら

上杉謙信の登場で、いったん兵を引いた武田信玄。

十分に戦略を練ってから準備万端で北信濃に戻ります。

次は、確実な橋頭堡を得るべく、信玄が目をつけたのが【塩田城】でした。

川中島のずっと南にあり、上田方面と松本方面から来た武田側の兵や物資の集合地点として最適な場所にあるのです。

ここを拠点にして、善光寺平への侵入を試みるという算段でした。

なお、塩田城の城代には、重臣中の重臣・飯富虎昌が置かれました。

武田四天王・山県昌景の兄とも叔父とも言われていて、元祖・赤備えを引き連れていた勇将ですね。信玄の嫡男・武田義信の傅役も務めるなど、武田家随一の武将でありました。

敵から見れば【一歩も引かない決意だゾ……】という人選です。

武田義信
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この塩田城を押さえてしまえば、そこから程近い葛尾城と荒砥城など大したことはありません。

実際、後詰めのない村上義清など楽勝とばかりに、この地から追い出すことに成功しました。

そしていよいよ信玄は善光寺平を目指します。

と言ってもいきなり川中島へ出たりはできません。

善光寺平の南の入り口に「塩崎城」という山城があります。

1553年に塩崎氏が屋代氏と共に武田信玄に降り、この善光寺平の要衝にある塩崎城を入手しました。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141116-66

「布施の戦い」武田勢進軍ルート/©2014Google,ZENRIN

これにて善光寺平への入口は開けますが、信玄は本陣を塩田城から動かしません。

上杉の動きを警戒したかどうかは分かりませんが、武田信玄は川中島からはるか南に離れたこの塩田城に布陣したままです。

信玄の性格なのかどうか。

ここから先は未知の領域ですし、どのタイミングで大国越後の上杉が出てくるかも分かりません。

ボス戦を前にできるだけ体力を消耗したくないし、引き返せないところで上書きセーブしちゃってもなぁ……といった心境でしょうか。

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