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【上杉景虎】
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上杉での待遇
上杉謙信は三郎を大歓迎しました。
かつての自分の名前である「景虎」をはじめ、姪(景勝の姉妹)との結婚、そして春日山城三の丸の住まいを与えたのです。

上杉謙信/wikipediaより引用
景虎の初陣は上杉入りしてからのことと思われますが、時期はハッキリしておりません。
翌元亀二年(1571年)には関東出兵に加わっていましたので、養子入りして割とすぐに初陣を果たしていたのではないでしょうか。
もちろん、このときの関東出兵が初陣だった可能性もありますね。
謙信の真意は?
上杉景虎は、謙信の重臣へ何回か手紙を書いたことがあり、おそらく上杉家中でも評価されていたと思われます。
一方で、上杉家の一門と重臣の軍役をまとめた書物『上杉家軍役帳』に景虎の名は記されていません。
その理由については現代の研究者の間でも以下のように意見が分かれています。
・景虎が世子だったから家臣の軍役帳からは外された
・この軍役帳は対北条軍編制のためだったので、同家出身の景虎は外された
軍役帳に限らず、なにより謙信が生前に跡継ぎを明言していなかったせいで、未だに「景勝と景虎のどちらを跡継ぎにするつもりだったか」問題は論争が続いていますね。
折衷案に近いものとして以下のような説もあります。
「景勝に上杉家の家督を注がせ、景虎には関東管領の職を継がせるつもりだった」
他にもさまざまな説があり、現代でも定説と呼べるものは出てきていません。

上杉景勝/wikipediaより引用
無理やり新たな説を作るとすれば、以下のような流れはいかがでしょう?
①もともと景虎は北条との同盟のために迎えた人質だった
↓
②元亀二年に北条氏康が亡くなり、跡を継いだ北条氏政は武田と関係改善を望び、上杉と破綻した
↓
③その直後から謙信は関東の反北条派大名と連絡を再開
↓
④謙信は武力で北条を潰すつもりだった
↓
⑤北条を滅ぼした後、名蹟を継がせる形で景虎を相模に置くつもりだった……かも?
※景虎の名を与えたのは上杉との繋がりを表しておくため
謙信が「武力で北条を潰すつもりだった」というのは、さすがに無理がありますかね?
しかし、この場合、上杉家を継ぐのは「最初から景勝の予定だった」ことにもなります。
上杉家中で謙信が「御実城(おみじょう)様」、景勝が謙信存命中から「御中城様」と呼ばれていた点も、「景勝は謙信に次ぐ存在」と見なされていたからかもしれません。
ちなみに”実城”は本丸もしくは城主の生活空間がある曲輪のこと。
中城はそれに次ぐ場所と考えられます。
また、北条との縁を利用すれば色々な立場になれる景虎と違い、景勝は「謙信の血縁者」ということが唯一にして最大の独自性です。
となると、やはり景勝を上杉の跡継ぎにし、景虎にはそれに匹敵する別の役割、例えば外交や調略などの役目を与えるほうが、融通が利きやすかったのではないでしょうか。
この辺りのことは今後の史料発見や研究の進展によって変わりますので、時系列を進めるとしましょう。
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